【六月口宣案】
一三三三年六月十三日、後醍醐天皇は、やむなく護良親王を征夷大将軍に任じた。
親王を信貴山から引きずり出さねば、戦乱は終わらぬ。そのための任官である。
いずれ、口実を設けて剥奪する。そのつもりだった。
同日、そんな父の考えも知らず、“将軍”護良親王は颯爽と京に帰還した。赤松円心が前陣を務め、四条隆貞が第三陣を務める。親王の生涯で、最初で最後の晴れ舞台だった。
帰京後、父帝に拝謁した親王は、さっそく足利高氏の脅威を説いた。
『高氏兵権を取ては昔の頼朝に替わるべからず。此次に誅罰せらるべし』(保暦間記)
“高氏が兵権を握れば、かの頼朝のように、幕府を開くに違いありません。北条を討った返す刀で、高氏を誅殺するべきです”
しかし、後醍醐は取り合おうともしなかった。
『さしもの軍忠の仁也』
“多大なる軍忠を示した人物である”
そう、高氏が鎌倉幕府に反旗を翻したからこそ、今の建武政権がある。後醍醐のこの言は、暗に「討幕で功を挙げたのは護良ではない」と言っているようにも聞こえる。
諸国の武士を束ねる事ができる足利高氏こそが、建武政権に必要な人物であった。
邪魔なのは、むしろ護良親王の方である。とりわけ、親王が討幕の際に、勝手に恩賞を約束した事が、早くも問題となっていた。幕府が倒れた今、親王の令旨をたてに、恩賞と称して他人の所領を奪う者が出ていた。この者達こそ、戦乱の元凶である。
十五日、後醍醐天皇は親王の令旨を無効とし、混乱に終止符を打とうとした。
『自今以後不帯綸旨者、莫致自由之妨、若有違犯法全族者、国司及守護人等不待勅断、召 捕其身』(金剛寺文書 元弘三年六月十五日口宣案・「建武政権試論」一五頁)
“今後、綸旨(後醍醐天皇の命令書)も帯びず、勝手な狼藉をするな。違反者が出たら、国司・守護はこちらの指示を待たず、その者を捕らえよ”
即ち、許可もなく、「恩賞」と称して、他人の所領を奪う事を禁じたのである。
これは絶大な効果をもたらし、諸国の勢力は、建武政権の顔色を窺うようになった。
後醍醐は、護良や高氏ではなく、自分に注目を集める事に成功したのである。
まもなく、諸勢力は、帝から安堵を得ようと、続々と京に集まった。
しかし、後世これが「綸旨万能主義」と呼ばれ、「後醍醐天皇は世の全てを、自分の意
思だけで決めようとした専制者」と評される事になった。