【京への帰路】
一三三三年五月二十三日、後醍醐天皇は、名和一族を伴い、京へ向けて進発した。
・二十五日、九州で少弐・大友・島津らが、鎮西探題を滅ぼした。
探題赤橋英時に三百四十余人が殉じた。この日、後醍醐は道中で光厳天皇を廃した。
・二十六日、長門探題北条時直が降伏した。
『符契をあはすることもなかりしに、筑紫の国々・陸奥・出羽のおくまでも同月にぞしづまりにける。六七千里のあひだ、一時におこりあひにし、時のいたり運の極ぬるはかかることにこそと不思議にも侍しもの哉』(神皇正統記)
“示し合わせたわけでもないのに、同じ月の間に諸国が静まった。時が至り、運命が極まるとはこういう事か。まったく不思議なものである”
後に北畠親房はそう振り返っている。
こうして、鎌倉幕府は、悉くが滅亡した。
無論、これは後醍醐天皇の力でも、足利高氏の力でもない。
この二人が、幕府倒壊時に果たした役割は、重大ではあっても不可欠ではない。
二つの個性が、余人に代え難い使命を果たすのは、むしろこの後である。
新たな朝廷によって、国を革めようとする後醍醐天皇。
鎌倉を捨て、六波羅に身を置いた足利高氏。
・三十日、摂津兵庫で赤松円心・則祐父子の迎えを受けた。
・六月一日、兵庫を出て、楠木正成の迎えを受け、鎌倉陥落の報を受けた。
後醍醐天皇の京への帰路は、確かに歓喜に満ちたものであった。
しかし、両者は鎌倉幕府が一気に倒壊した事によって、前時代の負の遺産をも全て引き継いだのである。
当時の日本が停滞を脱け出すには、様々な矛盾の解決が必要であった。
この話もしておこう。この時期、日本列島はしばしば寒気に覆われている。新田義貞が
鎌倉攻略に利用した干潮も、小氷期気候による著しい海退が原因であるというi。
そういえば花園上皇も、一三二〇年に「寒波」の事を記していた(【儒学奨励と蝦夷蜂起】参照)。騒乱の背景には、人の力を超えた要素が大いに関わっていた。
兵乱の背後に天意あり。一四世紀、日本では、気侯の異常が観測されていた。
両者は、早急に兵乱を鎮め、一刻も早く民に安寧をもたらす政治を行なわなければならなかった。変革の時代の始まりである。