【決戦、鎌倉】
一三三三年五月十七日、船上山には、公卿達が参集していた。この日、機が熟したと判断した後醍醐天皇は、「光厳天皇が行なった人事を白紙に戻す」と宣言した(伯州詔命)。
十八日。関東では、新田・足利討幕軍が、南下の末、七里ヶ浜に到着した。
ここで、ようやく討幕軍に加わる者も少なくない。結城宗広などはこう言っている。
『自今月十八日、始合戦、毎日連々企数戦』(「伊勢結城文書」元弘三年六月九日結城宗広請文案、「福島県史」七、三六九頁・「建武政権における足利尊氏の立場」四〇~四一頁)
“十八日から合戦を始め、連日連戦しました”
という事は、討幕勢力からの誘いを黙殺し、直前まで傍観に徹していた事が分かる。
しかし、これを非難するのは酷だろう。鎌倉幕府の倒壊は、後の室町幕府や江戸幕府の倒壊とは異なる。幕府は、ほんの二三年前まで勝ち続け、表面上、北条一門は圧倒的な優位にあった。なまじ中央を知る人物ほど、その倒壊を信じられなかったのである。
だが、その実態はどうか。内管領長崎高資は、この時期に史料上から姿を消し、「おそらく過労死か病死をしたのだろう」と言われている。父円喜も相次ぐ失策で力を失った。また、大仏惟貞ら有能な一門も、既に亡くなっている。幕府は「指導者の不在期」にあった。しかも、改革を捨てた幕府には、それを補うべき制度もなかったのである。
この日、新田義貞は、小袋坂・化粧坂・極楽寺の三道から、鎌倉への突入を命じた。
小袋坂方面軍は堀口貞満と大島義政。化粧坂方面軍は新田義貞と脇屋義助。極楽寺方面軍は大館宗氏と綿打氏義がそれぞれ鎌倉市街を目指す。
これを防ぐ北条軍も三道に将を配した。小袋坂に陣取るのは、執権赤橋守時である。
守時は、妹婿足利高氏の裏切りに責任を感じていた。聞けば、新田軍は、千寿王を奉じてここまで膨れ上がったという。守時は執権である。ここで義貞を討つ責任があった。
赤橋軍の突撃は凄惨を極め、小袋坂方面軍は押しまくられた。このまま、一気にこの方面の敵を殲滅する。赤橋軍は前方に大きく突出した。だが、この追撃は、後続との連携を欠くものであり、赤橋軍は州崎付近で孤立を余儀なくされた。
化粧坂の義貞は、普音寺基時(【謎の失脚】参照)と金沢越後左近大夫将監(貞顕との関係は不明)が抑えているというのに。守時は歯軋りしたが、赤橋軍は体勢を立て直した堀口・大島勢に包囲されていく。もはやこれまで。守時は包囲の中で自刃した。
しかし、後方で軍を再編していた金沢貞将(貞顕の子)が、すぐさま戦線に投入されたため、小袋坂方面軍は、防衛線を突破できなかった。
一方、極楽寺方面では、「混戦」が展開されていた。この方面は、鎌倉市街に突入する進路が二つもあったからである。一つは極楽寺坂であり、もう一つは稲村崎である。
間に霊山という山を挟んで、北に極楽寺坂があり、南に海岸線を通る稲村崎がある。
したがって入口は二つあり、突破は容易に見える。しかし、難点があった。
この方面を守る大仏貞直は霊山に兵を置き、突入を図る討幕軍を側面から突く体制を整えていた。これではうかつに攻められぬ。しかも、極楽寺坂にも十分な軍勢が配備され、これのみでも突破は困難だった。そうなると残るは稲村崎、海岸の狭路であるが、ここは水軍からの矢雨にさらされる進路であり、海岸線は逆茂木で固められていた。
したがって、極楽寺方面を突破する事も、至難であった。
だが、確かな記録によると、方面軍を指揮する大館宗氏は、十八日に稲村崎を突破している。おそらく敵の防衛体制が整う前に先手を打ち、少人数での突破に成功したのだろう。
『稲村崎の陣を駈け破り、稲瀬川ならびに前浜の鳥居脇まで合戦の忠をいたす』
(「鎌倉遺文」三二八一三号、「鎌倉北条氏の興亡」二〇三頁)
“稲村崎の陣を駈け破り、稲瀬川及び前浜鳥居の周辺まで進出して戦いました”
この前浜というのは、稲村崎の更に奥にある浜辺で、この方面においては鎌倉中心街への最期の関門となる稲瀬川の一歩手前である。
つまり、宗氏は相当無理な進撃を重ねたようで、さしもの大館勢も稲瀬川で力尽きた。
『大将大館、稲瀬川において討ち取られ』(梅松論)
“大館宗氏は、稲瀬川において討ちとられた”
残された極楽寺方面軍は、極楽寺坂を中心に戦闘を展開せざるを得なくなった。
二十日、やはり霊山にいる軍勢が邪魔だ。極楽寺方面軍は、霊山寺に攻撃を集中した。
『廿日奉属新田遠江又五郎経政御手、就到軍忠、於鎌倉霊□寺之下討死畢』
(元弘三年八月日熊谷寅一丸申状・山本「新田義貞」一〇一頁)
“新田経政の軍勢に参加して、軍忠を致し、鎌倉霊山寺で討死しました”
翌二十一日も、霊山寺を巡る戦いは続いた。霊山寺大門に陣取る貞直軍は、要所を渡すまいと散々に矢を射かけ、近付く綿打氏義勢を攻めあぐねさせる。
しかし、戦線の膠着が続くと思われたその時、寺とは別の方角に駆ける一団が出現した。
『俊連峯より折り下り先を懸け、敵の籠る大門狭板を打ち破り戦う』
(和田文書・山本「新田義貞」一〇三頁)
“三木俊連が、峯に登ってそこから一気に駈け下り、敵の籠もる大門を突破した”
この俊連の働きによって、方面軍は、この日のうちに霊山を制圧した。
この間、化粧坂口を他将に任せた新田義貞も、本陣を稲村崎に移している。
大館宗氏が突破できたのだから、本軍による突破も可能なはずだという理屈だった。
問題は、大軍の移動が難しい狭路をどう抜けるかであった。
ここで日を掛ければ、勝機を失う。
だが、力攻めをすれば、敵船団からの矢で大出血を強いられる。
何か策はないか。
午前四時十五分頃。稲村崎に異変が起きた。
『俄かに塩干して合戦の間干潟にて有し』(梅松論)
“にわかに潮が引き、合戦の間、海は干上がった”
干潮だった。浜辺から海が後退していく。
さしもの敵船団も、浜辺から引き離され、稲村崎を通る討幕軍の狙撃が不可能となった。この瞬間、幕府は天に見捨てられたのである。
しばし、自然の脅威に圧倒されていた義貞は、やがて我に返り全軍に突入を命じた。
目指すは、東勝寺(北条氏代々の菩提寺)。北条高時の首一つ。
二十二日、北条軍は鎌倉市街に侵攻を受けていた。
各防衛拠点を固める諸将が最後を迎えるのは、この段階になってからである。
極楽寺方面の守将大仏貞直は、前方と後方から攻撃を受け、ついに討死した。
小袋坂の金沢貞将(貞顕の子)・化粧坂の普音寺基時は、軍勢が底をつき自害した。
鎌倉三道を守った守将の中、基時だけが過去の人である。後方の北条高時の側で控えていて然るべきなのだが、近江での嫡子仲時の最期を知り、それを望んだのだろうか。
そして東勝寺。得宗高時が籠もるこの寺にも、今や敵軍が殺到しようとしていた。
だが、高時は、自らの死に場所を鎌倉と思い定めている。
弟泰家と亀寿丸(時行)らは、既に鎌倉を脱出している。得宗家は滅びない。
鎌倉に殉じたい者だけがここで死ねばよい。
高時に、長崎円喜・安達時顕・金沢貞顕。彼らは東勝寺で自害し、鎌倉と共に滅びた。
滑川で、東勝寺に向かう新田軍を防いでいた者達も、寺が燃える様子を確認するや、皆自害した。実に、千人を超える武士が、「武士の都」と運命を共にしたのである。
最期の将軍守邦親王は、この後、出家した。
一方、金沢越後左近将監は、化粧坂から前方に決死の突撃をかけ、血路を開いたようだ。その後の行方は、ようと知れない。