【若君の挙兵】
一三三三年五月中旬、関東では、新田義貞が勅命を奉じて幕府軍と衝突しながら、南下を続けていた。十二日、上野国世良田において、鎌倉から脱出した千寿王も挙兵した。
『十二日馳参上野国世良田、令参将軍家若君御方之処』(鹿嶋利氏申状案i)
“十二日に上野国世良田に馳せ参じ、若君(千寿王)の御味方に参じました”
千寿王は足利高氏の嫡子であり、母は執権赤橋守時の妹である。高氏が出立した時点では人質として鎌倉に留め置かれていたが、鎌倉からの脱出に成功していた。まだ子供とはいえ、血統も地位も、無位無官の新田義貞をはるかに上回る存在だった。
北条氏に代わり、関東に君臨すべき人物として、これ以上の貴種はいなかった。
『被付新田三河弥次郎満義世良田之手』
“(若君に合流した後は)世良田満義の軍に配属されました”
そのため、新田本家と仲の悪い世良田満義(新田一族)などは、この時点で千寿王と行動を共にしている。討幕軍が、僅か数日で「西は河内・東は奥州」からの参陣を得て、急速に膨れ上がったのは、京における高氏の軍勢催促と、関東における千寿王の挙兵ゆえといわれている。千寿王を奉じる軍団は、まもなく武蔵で新田軍に合流した。
同じ頃。父高氏は、千早城から南都へ後退した幕府軍の懐柔に乗り出していた。
『頼朝の旧義を忘れず、今の勅命を重んぜば、京都へ馳上て合力すべし』(保暦間記)
“頼朝公の旧恩を忘れず、帝の勅命を重んじるならば、京都へ駆け付け合力すべし”
投降勧告だった。注目すべきは、勅命と並べて“頼朝”の名を使っている事だろう。
実は、高氏がおさえた六波羅には「将軍の本邸」があった。京から鎌倉へ下向する将軍達が必ず六波羅に立ち寄る(【二条、新将軍の到着を目撃する】参照)理由。“六波羅の主”高氏は、この時点で、「頼朝の立場」を受け継ぐ資格を備えていたのである。高氏は、この政治効果を存分に利用し、“新たな幕府”をも視野に入れた手を打ち始めていた。
間もなく、南都の幕府軍は高氏に降服し、頭を丸めた大将らは禁獄された。
再び関東。新田・足利を中心とする討幕軍の南下で、鎌倉に危機が迫るなか、得宗北条高時は、出家していた弟泰家を復帰させて軍勢を与え、討幕軍の迎撃に向かわせた。
十五日、泰家率いる軍勢は、武蔵分倍河原で討幕軍の進軍を食い止め、後退させた。
しかし、泰家は運に見放されていた。ここで、討幕軍に、三浦大多和義勝率いる相模の軍勢が合流した。義勝は、足利の重臣、高一族から三浦に養子にいった人物であるii。
翌十六日、力を得た討幕軍は、泰家を鎌倉に追い返し、武蔵を掌握した。