【脱線十一・船上山からの指令】
一三三三年四月末~五月初めにかけて、後醍醐天皇は勢いづく宮方に釘をさしている。
『仙洞以下縦雖有与同、彼凶黨之義、不可混朝敵之族』
(「光明寺残篇」・「建武政権試論」一七一~一七二頁)
“(持明院統の)院以下は、幕府に味方したといっても、朝敵と混同してはならない”
『官軍等於仙洞邊不可致狼藉、若誤而有無禮事者、可處重科』(同一七一頁)
“官軍の中で、院に対して狼藉、あるいは無礼を働いた者は、重罪とする”
また、持明院統の所領や、貴族に対する手出しも禁じた。
意外や意外。後醍醐は、以前に持明院統の所領を奪いもしたが、討幕戦では持明院統の保護を厳命するのである。そして、建武政権が成立した後も、持明院統に対し、必要以上の圧力を加えようとしなかった。後醍醐は、矜持というものを持っていたらしい。
ところで、天皇が軍勢に対して直接指示を出すのは、絶えて久しい。
南朝の特徴ともいえる、「天皇による軍事の掌握」は、この時期に起源を持つ。
しかし、これは必ずしも悪い事ではない。何故なら、後醍醐は軍の狼藉に対し、指導者としての責任を果たそうとしているからだ。例えば、五月に、こんな指令を出している。
『東夷等運命已窮、滅亡將至、依之、漫取無辜平民之首、不知其數』(同一六八~一六九頁)
“もはや幕府の運命も窮まり、その滅亡は必至だが、戦乱に乗じて無喜の民の首を取る者が後を絶たない“
『盗奪尊卑男女之財、逐日暴、佛閣人屋之灰燼』
“民の財の強奪も、日を追って激しくなっている、また仏閣・人家も灰燼に帰している”
『獸心人面者也、不誅罰彼逆黨、萬民何措手足』
“(このような輩は)人の皮を被った獣である。これを罰さずして、民の安寧は図れない”
『官軍士卒上下同心、只伐叛者、不煩衆人、偏先仁慈、更無侵奪人』
“官軍は上下心を一つにし、ただ謀反人を討て。民を煩わさず、慈しみをもち、侵奪などは間違ってもするな”
『生擒之類、於凡下者速可放棄、於有名之輩者召置之、可經奏聞』
“捕虜のたぐいも、名もない者は放ち、名のある者は捕縛した上でこちらに報せよ”
つまり、「こちらの指示もなく捕虜を断罪するな」というのである。四月の時点では、「敵を捕らえたら切れ」としていたが、宮方の優勢が固まるや、それを改めたのであった。
しかし、これらの指示にもかかわらず、地獄が始まるのは、ここからだった。