【後嵯峨上皇の時代】
一二四六年十月、執権北条時頼の申し出で、西園寺実氏が関東申次に就いた。
ここに九条道家の転落が決定付けられたのである。
以後、摂関家は、近衛・鷹司・一条・二条・九条に分裂した。これを五摂家という。
その後の朝廷を主導したのは、後嵯峨上皇だった。上皇は、幕府の要請もあって「徳政」を行ない、葉室定嗣ら中下級貴族を政権に参加させた。特筆すべきは、自らも臨席する院評定(会議)の実施だろう。評定には、西園寺・土御門・久我ら上級貴族も参加した。
道家が始めた改革は、上皇によって、朝廷全体の取組みとなったのである。
一二四七年、高野山から下りた安達景盛が、子の義景・孫の泰盛に三浦泰村の討伐を命じたため、鎌倉で宝治合戦が起きた。この戦いで三浦は族滅し、千葉氏らも没落した。
一二五一年、その幕府に対し、上皇は皇子の宗尊親王を派遣した。上皇は、幕府念願の「親王将軍」を実現させたのである。公武が共存共栄する時代となった。
上皇と時頼の蜜月を支えたのは関東申次だった。後嵯峨はこれに報い、西園寺実氏・洞院実雄兄弟の娘達を、次々と皇子達の妃として受け入れた。
そのため、西園寺・洞院の血を引く天皇が、その後の朝廷では続いた。
一二五八年三月、後嵯峨上皇は大々的な御幸を行った。
華美を極める行列が向かう先は高野山。だが、行列の主の表情はどこか沈痛であった。
それは、この御幸の隠れた目的による。
上皇は、高野山で“土御門顕定”という人物に会わなければならなかった。
後嵯峨が即位する前に「土御門殿」に居た事を思い出してもらいたい。顕定の父定通は不遇な時代の後嵯峨を支えた数少ない貴族である。ある時、顕定は近衛大将への昇進を希望した。恩人の子の頼みである。上皇は快諾した。しかし、官位叙任直前に、西園寺実氏の横槍が入った。西園寺は無碍に出来ない。やむなく、後嵯峨は実氏の息子公相を、昇進させた。一二五五年、これを嘆いた顕定は、突如出家し、高野山に登った。
その時の事を詫びようと上皇が顕定の庵室を訪ねたところ。昨日まで居たはずの顕定の姿は無かった。それどころか、庵はきれいに片付けられ、誰一人いなかった。
既に引き払っていたのである。上皇は、しばらく呆然とした後、ぽつりとつぶやいた。
『今更に見えじとなり。いとからい心かな』(増鏡)
“今更、私と会うつもりなどないというのか。きつい仕打ちをしてくれる”
あんなに気落ちされた院など、見た事がない、廷臣達は口々にそう言った。