【足利高氏起つ】
八条院領が大覚寺統の手に渡った経緯には、もう触れている(【後嵯峨法皇の死】・【ねじれ政局】参照)。その中に、足利荘という荘園があり、足利氏が荘官を務めていた。
足利氏は、鎌倉幕府の重鎮で、草創期以来の威勢を保つ数少ない御家人である。
清和源氏の名門という家格。初代頼康の源頼朝との血縁関係。度重なる北条一門との婚姻。これらを駆使し、政争絶えない鎌倉時代を生き延びてきた。
現当主は足利高氏という。母は上杉清子といい、つまるところ、正室(金沢氏)の子ではない。北条の血も流れぬ高氏が、父貞氏の死後、当主となれたのは、兄高義(正室の子)が早世したからである。妻は、執権赤橋守時の妹、登子を迎えている。
北条は、この異色の当主に対し、厚遇を以て友誼を築く道を選んだ。
『源高氏從五位上に敍す。是れ關東申すの故なり。此の事に依り、今日除目を行なはるるなり。忩ぎ申すの故なり』(花園天皇宸記)
“(一三三二年六月八日、)高氏を従五位に叙した。幕府の依頼があったからである。この事により、わざわざ今日人事を行なった。急いで欲しいといわれたからである“
しかし、高氏は、祖父家時の無念の死を知っている(【弘安徳政】参照)。
宮方を討った足利を、長崎円喜がそのまま放っておくかは、甚だ疑問であった。
一三三三年三月二十七日、高氏は宮方討伐のため、鎌倉を離れた。妻登子と嫡子千寿王を鎌倉に残しての出立だった。両人は、足利が幕府に背かぬための、人質である。
『疑をのがれんとにや、告文をかきおきてぞ進発しける』(神皇正統記)
“疑惑を逃れるためだろうか、(高氏は)誓紙を提出した上で進発した”
宮方につくべきか。『難太平記』によると、母清子の兄上杉憲房は、出発時から決起を促していたという。また、三河で、吉良貞義に是非を問うたところ、「遅いくらいです」といわれた。あるいは、『梅松論』によると、近江で、細川和氏と上杉重能が、前々からの工作で得た綸旨(後醍醐天皇からの命令書)を披露し、高氏に挙兵を勧めたという。
そんな高氏が向かう畿内・西国では、幕府軍と宮方が激突していた。
・二十八日、比叡山が赤松軍と呼応して京に攻め入るが、六波羅軍に防ぎきられた。
・二十九日、吉見頼行が長門探題を攻めた。
・四月三日、赤松軍が再度京に迫るが、攻めきれず退却した。
・八日、千種忠顕が山陰の軍勢を率いて、赤松軍と京を攻めた。一時京を占領したが、まもなく、支えきれずに後退した。
十六日、高氏は入京した。両六波羅は援軍の到着を喜び、さっそく高氏等に伯耆への進発を要請した。まもなく、高氏は後伏見上皇から院宣を受けて出立し、丹波・丹後を経て、伯耆に向かう事となった。一方、名越軍は、播磨を経て、伯耆を目指す事となった。
両六波羅は、なぜ高氏等を目の前の赤松・千種軍に差し向けなかったのか。おそらく、この時点で、京周辺の宮方は残力を使い果たそうとしていた。十七日、千種忠顕などは、護良親王と連携しながら、断末魔の悲鳴のように(後醍醐を奉じた)綸旨を発している。
『平高時法師、不領国家軌範、猥背君臣之礼儀、掠領於諸国、令労苦万民』(「伊勢結城文書」元弘三年四月十七日後醍醐天皇綸旨案・「建武政権における足利尊氏の立場」三七頁)
“(結城宗広殿、)高時は国を乱し、君臣の礼に背き、諸国を掠め盗り、民を苦しめている”
実は、宗広に対しては、四月一日に、船上山にいる後醍醐天皇が綸旨を発している。
そのため、宗広宛ての綸旨は、同時期に「二通も」残っている。宮方の動揺が窺える。
入京後の約十日間、高氏の行動はよく分からない。足利軍は、ずっと京周辺で立ち往生していたわけで、その動向は六波羅から警戒されなかったのだろうか。
確かなのは、四月中に高氏と連絡をとったのが伯耆の後醍醐天皇であり、畿内で活動する護良親王・千種忠顕らとの間で連絡が成立するのは、五月以降という事だけである。
高氏は、京周辺の勢力には去就を示さず、遠国向きの工作を黙々と進めていたようだ。
二十七日、足利軍が西岡を経由した頃、名越軍では深刻な事態が発生していた。
大将名越高家が、久我縄手で、赤松軍にあっさりと討たれたのである。
戦意を失った名越軍は、京への退却をはじめた。丹波国篠村にその報が届くや、高氏は直ちに、篠村八幡宮に錦の御旗を掲げた。即ち、宮方への与同を表明したのである。
源氏の正統足利が離反した。高氏の決起は、大きな波紋を呼んだ。
『京中に充満せし軍勢共御味方に馳参ずる事雲霞のごとし』(梅松論)
“京で去就を定めかねていた軍勢が、こぞって高氏の下に馳せ参じた”
高氏は、更に結城宗広ら各地の諸将に、相次いで挙兵を促す書状を発した。
二十九日、高氏は、九州の将にも挙兵を要請している。
『蒙勅命之間、令参候之処、遮御同心之由承候之条為悦候』(「大友文書」(元弘三年)四月二十九日足利高氏書状(鎌倉遺文三二一一九)・「建武政権における足利尊氏の立場」三六頁)
“(伯耆から)勅命を受けて参じたところ、(大友貞宗殿が)お味方と知り喜んでいる”
この書状に、九州の諸将はようやく重い腰を上げた。