【むら時雨】
元弘の変を経て、朝廷は鎌倉幕府への従属を強めた。もっとも、持明院統の後伏見上皇は、これを甘受している。それで、朝廷の安泰が図れるなら、安いものだった。
幕府も心得たもので、皇太子の人選については持明院統を表に出した。そのため、兄から工作を任せられた花園上皇は、甥のためもあり、この時期多忙である。
一三三一年十月十三日、大覚寺統の女総帥、媒子内親王は次の事を花園に依頼している。
『陽德門院の御在所借り申さるゝの段、如何』(花園天皇宸記)
“(後深草院三女の)御所を康仁親王(邦良親王の子・媒子が庇護)にお借りしたい”
これは、持明院統が旧後宇多派(大覚寺統の穏健派)を屈伏させたに等しい。おそらく支援を条件に、両統の間では、様々な密約が交わされたのだろう(室町院領の提供などi)。
花園の政治家としての成長ぶりが窺える。十一月八日、康仁親王が皇太子となった。
持明院統の勝利は、先帝派(大覚寺統の討幕派)の没落と無関係ではない。
①官位剥奪:西園寺禧子(皇后位を停止)・万里小路宣房(但し翌年大納言に復帰)
②預かり:恒良親王・成良親王・義良親王(いずれも寵妃阿野廉子の子で、関東申次西園寺公宗邸に預かり。皇子のうち十歳以上の者は遠国に流され、十歳未満の者は幕府派公卿のもとに預けられたii)、二条道平(前関白)等
③配流:尊良親王(第一皇子、土佐へ)・尊澄法親王(天台座主、讃岐へ)・万里小路藤房(宣房の子、常陸小田高知の許へ)・千種忠顕(隠岐へ)・花山院師賢等
④斬首:源具行(首謀格)・平成輔(阿野廉子の側近)・日野資朝・日野俊基
無事だったのは籠居中の吉田定房、厭世中の北畠親房、その子顕家くらいだった。幕府に「先帝と袂を分かった」と見なされた彼らは、のちに先帝と微妙な関係となった。
『或はしのび隠れたるもあり』(神皇正統記)
“一方で、姿を隠して、幕府の追及から逃れた者もいた”
すなわち、畿内の山中に身を隠す、尊雲法親王(大塔宮)・四条隆資・楠木正成である。
『まだなれぬ 板屋の軒の むら時雨 音を聞くにも ぬるる袖かな』(増鏡)
“なじまぬ、粗末な板屋暮らし。むら時雨の音を耳にしただけで、涙が頬をつたう”
この頃、六波羅のあばら屋に逼塞を余儀なくされていた先帝の和歌である。何ともしおらしいが、この和歌からこの時期の「後醍醐天皇」を想像するのは早計である。
というのも、翌一三三二年一月十七日には、「先帝が脱走を企てた」という噂が流れている。表では意気消沈しながらも、裏では脱走を企てる。それが、「先帝」であった。




