【天魔の所為】
一三三一年十月四日、幕府に捕えられた先帝が六波羅に護送された。その際、六波羅は討幕勢力による先帝の奪回を恐れ、数万の軍勢に輿を囲わせた。輿を固める数万の松明の火に、手出しをする者は現れず、先帝は無事六波羅に送られ、南方に幽閉された。
ここで、深刻な問題が生じた。先帝と思しき人物を護送したが、襲撃はなかった。
捕えたのは本当に先帝なのだろうか。先帝の顔を知る者など、六波羅にはいない。
そこで六波羅は、六日、三種の神器を回収しに来た堀川具親らに判別を頼んだ。
『今日は劒璽供奉のため參るところなり。此の事仰せを奉らず、難治』(花園天皇宸記)
“今日は三種の神器をお運びするため、参ったのじゃ。そんな事は聞いておらぬ。難儀”
しかし、先帝から怨みを買うことを恐れた具親らは、これを拒絶した。
そこで六波羅は、改めて先帝を検知する人物を派遣するよう、朝廷に要請した。
八日、貧乏くじをひかされたのは、関東申次西園寺公宗だった。
『今夕公宗卿六波羅第に行き向ひ、先帝を見奉る』
“今日の夕方、公宗卿が六波羅に行き、先帝にお会いした”
その席で、後醍醐は公宗にこう言ったという。
『天魔の所爲たり。寬宥の沙汰有るべきの由、武家に仰すべき』
“こたびの事は、天魔の所業じゃ。我が罪を許すよう、武家に申せ”
これを聞いた花園上皇は、再び嘆息した。最早、先帝について言う事は何もなかった。
十五日、討伐軍は赤坂城へ侵攻した。
『梨本前門主河内国楠兵衛尉城に御坐す』
(金沢貞顕書状・五一二号、「人物叢書 金沢貞顕」一三七~一三八頁)
“大塔宮が、いまだ楠木正成の城(赤坂城)に籠もっている”
二十一日、その赤坂城も陥落した。しかし、そこに正成の姿はなかった。多分、焼け死んだのだろう。そう判断した幕府は、楠木の所領を紀伊の湯浅党に与え、乱の幕を閉じた。
十一月、討伐軍は関東に帰国した。五日、大仏貞直に持明院統から馬が与えられた。
一方、それより前に、帰国する将軍もいた。
『足利高氏先日下向には御馬を給はらず』(花園天皇宸記)
“先日、足利高氏が帰国した際には、馬を下賜しなかった”
『一門にあらざるの上、暇を申さざるの故なり』
“北条一門でもないし、暇を言わなかったからである”




