【楠木正成の登場と笠置陥落】
一三三一年九月一日六波羅の軍勢が、五日以降は鎌倉の軍勢が、それぞれ進発した。
鎌倉からの軍勢を率いるのは、大仏貞直・金沢貞冬(貞顕の子)・江馬時見、そして父
貞氏(【二条、新将軍の到着を目撃する】参照)を失って間もない足利高氏である。
一方、後醍醐天皇が籠もる笠置にも、大和・河内・伊賀・伊勢の武士が集まっていた。この時、笠置に応じ、備後の桜山慈俊と河内の楠木正成も挙兵している。
楠木正成は、河内の武士である。その正体は、現在でもよく分かっていない。しかし、河内付近で流通に従事し、その関係から“畿内の悪党”と親しかったという。今回の戦いでは、楠木に呼応し、伊賀の服部氏ら(楠木と婚姻関係にあったi)が蜂起している。
だが、これらの側面を持ちながら、正成本人は、妙に文字に品があり、その生涯の行動はどこかいさぎよい。つまるところ、“悪党らしくない”のである。そのため、近年では「元は御内人だったのではないか」と言われている。いずれにしろ、怪僧文観を通じて、後醍醐天皇と出会い、「元弘の変」を機に、幕府との対決に踏み切っていたii。
畿内の広範囲に影響力を持つ楠木の挙兵を、幕府は重く見た。
そのため、九月初頭には笠置との和睦を画策していた東使二階堂道薀も(花園天皇宸記)、首脳部の強硬策に従わざるを得なくなった。二十日、幕府は、持明院統の量仁親王を即位させた。北朝初代の光厳天皇である。これによって、後醍醐は“廃帝”となった。
二十八日、笠置はあっさり陥落した。“先帝”は、やむなく源具行・万里小路藤房・千種忠顕らを連れ、逃亡を図った。しかし、三十日に身柄を拘束された。
『山中に人有り。仍て深津某馳せ來りて取る。即ち先帝なり』(花園天皇宸記)
“(南山城の)山中に人がいたので、深津三郎入道が捕えたところ、先帝だった”
『亂髪にして小袖一・帷一を着せしめ給ふ』
“(その際、先帝は)頭髪が乱れ、小袖ひとつに帷ひとつの姿だった”
この格好は、現代の感覚でいえば、ほとんど下着姿に近い。
『王家の恥何事か如かんや』
“天皇家にとってこれほどの恥はない”
『天下靜謐尤も悦ぶべしと雖も、一朝の恥辱又歎かざるべからず』
“(先帝の身柄が確保され、)天下が収まったとはいえ、この恥辱には嘆息を禁じえない”
十月三日、幕府軍は先帝を伴い、京に帰還した。宮方(後醍醐方)の完敗であった。
この顛末に、和睦を画策していた二階堂道薀は、慌てて持明院統に陳謝した。




