【宮騒動―九条道家の大博打―】
そして、一二四二年に戻る。四条天皇の死後、九条道家は北条得宗家(泰時の血統)との対決を決意した。それは、北条に味方する、舅西園寺公経との決別をも意味した。
幕府に逆らった道家が直ちに失脚しなかったのは、敵対者の死が相次いだからである。この年六月、執権北条泰時が鎌倉で亡くなり、幕府は反撃の機を失った。
一二四四年四月、執権北条経時(泰時の孫)は、ようやく将軍九条頼経を廃し、その子頼嗣を五代将軍とした。しかし、ここでも不幸が起こる。八月、京で西園寺公経が死去したのである。道家は、これを機に、西園寺から関東申次の職を奪った。
一二四六年一月、後嵯峨天皇が退位し、皇子の後深草天皇が即位した。この天皇は西園寺公経の子実氏を外祖父とする。自然、道家は実氏の排除を画策するようになった。
・九条派:一条実経(道家の子)・近衛兼経(娘婿)・鷹司兼平(兼経の弟)
・西園寺派:二条良実(父道家と険悪)・土御門定通(久我通親の子)・後嵯峨上皇(黒幕)
そんな中、執権経時も病に倒れた。
政治空白に乗じ、道家は二条良実を罷免し、言う事を聞く一条実経を摂政とした。
道家は反対派の締め出しを図ったのである。
道家がここまで強気に出たのは、幕府評定衆(重臣)の千葉秀胤・後藤基綱・藤原為佐・三善康持らが、前将軍九条頼経を奉じ、味方に付いたからである。
『入道将軍、東山禅閤を示し合わせ謀を廻し、猛将等を相語らい』(岡屋関白記)
“前将軍は父道家と示し合わせ、謀略を廻らし、猛将等と相語らった”
皆、日頃から北条の専横に不満を持つ連中である。
その狙う所は、北条一門の名越光時を執権に据え、将軍の力を復活させる事だった。
執権は将軍を操り人形にした。ならば、将軍が執権を操り人形にして何が悪い。
閏四月一日、執権経時が、弟時頼を後継者に指名したうえで亡くなった。
前将軍派は、これを認めず、鎌倉は緊張に包まれた。
しかし、若き執権時頼は有能だった。時頼は、北条政村(一門長老)・北条実時(金沢)・安達義景(有力御家人)を味方に付け、ついに付け入る隙を与えなかったのである。
そのため、様子を窺っていた最有力御家人三浦泰村が、時頼への支持を表明した。
この三浦の動きが大勢を決した。五月二十五日、追い詰められた光時は出家し、伊豆に流された。そして、企てに失敗した前将軍頼経は、六月十一日鎌倉から追放された。