【正中の変】
討幕計画は進められていく。首謀者は、日野資朝と日野俊基だった。両名は、宣旨をたてに各地の有力者を引き入れ、『無礼講』と称し、後醍醐天皇も参加する宴席で彼らと酒を酌み交わした。その参加者は衣冠を着けず、殆ど裸形だったという(花園天皇宸記)。
一三二四年八月三十日、六波羅南方の北条惟貞が鎌倉に呼び戻された。これにより、六波羅は、北方だけとなった。資朝らは、これを絶好の機と捉え、計画の実行日を定めた。
しかし、資朝らは急ぎすぎたのかもしれない。細心の注意を払って集めたはずの同志には、不純物が混じっていた。同志、多治見国長の一族、土岐頼員である。頼員は六波羅奉行斉藤利行の娘婿であり、本来なら、もっと慎重に接触すべき相手だった。
頼員は、一度は計画への参加を約束していたが、まもなく翻意した。
幕府に一泡吹かせるなど無理がある。計画次第では舅殿に報告すべきだ。
そう思い定めた頼員は、国長の宿所を訪ね、改めて計画の詳細を聞くことにした。
頼員を信頼する国長は、何ら警戒する事なく、計画の全容を披露した。
「計画実行は十月二十三日。北野天満宮祭の警備に人員が駆り出され、手薄になった六波羅を近国の同志と共に制圧し、北方の北条範貞を討つ。しかる後、
『山門南都衆徒ら仰ぎ、宇治勢多等固む』(花園天皇宸記)
“比叡山・興福寺の僧兵に呼びかけて、京への通り道を封鎖する”
即ち、畿内を幕府の軛から解き放ち、朝廷の手に戻す」
頼員の背を汗がつたった。朝廷は何を考えているのか。仮に、一時でもこんな計画が成功すれば、加担した土岐一族は幕府に族滅される。計画実行まで、あと一ヵ月。一族総領の頼貞と相談している時間などない。いや、下手に諮れば、自分が頼貞に殺される。
九月十六日、頼員は上洛して舅の下へ赴き、討幕計画を密告した。
計画は、あっけなく露見したのである。六波羅は即座に京中洛外の武士を招集し、更に九州の鎮西探題も軍勢を集めた。この時、幕府の対応は素晴しく早かった。
九月十九日未明、六波羅の軍勢が多治見国長と土岐頼有の宿所を襲撃し、両名を自害に追い込んだ。又、錦織判官と足助重範も連座した。いずれも、源氏である。
昼過ぎ、西園寺邸滞在中の後醍醐天皇に、日野資朝・日野俊基らの引渡しが要求された。
『勅答等前後に依り違ふ』
花園上皇の聞いたところ、後醍醐の返答は二転三転したらしい。計画発覚は予期せぬ事態だったのだろう。しかし、しだいに追い詰められ、遂に引渡しを認めた。