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【東関の武略】

 一二三五年、九条道家は「後鳥羽上皇の赦免」を幕府に嘆願したが、あっさり斥けられた。この出来事は、道家に一つの教訓を与えた。即ち、“改革だけでは足りない”と。

このまま幕府を野放しにする限り、朝廷の凋落は止まらないだろう。


それを象徴する事件も起きている。この年五月、岩清水八幡宮と興福寺が、ある地域の水利を巡って衝突した。閏六月、岩清水八幡宮は、この騒動を口実に朝廷に強訴(脅迫)し、因幡国を寄進しろと要請した。道家は調停を試みたが失敗し、結局これを呑んだ。

十二月、今度は興福寺が春日神社の神木を担ぎ出し、朝廷に強訴をした。興福寺は藤原の氏寺である。へたに逆らえば、道家とて「藤原の氏」を剥奪されてしまう。やむなく、道家は「岩清水八幡宮の指導者を解任し、因幡国の寄進も止める」と回答した。

表面上、その場しのぎの対応を続ける道家は、裏で二つの事を画策していた。

①一二三六年一月、西園寺公経の仲介を得て、娘任子を近衛兼経に嫁がせた。

②万が一の場合には、軍勢を派遣するよう、将軍九条頼経に要請した。

危機を煽った上で、「興福寺への牽制」を口実に、摂関家を再統一する。そして、それでも興福寺が引き下がらないなら、息子に叩かせる。何とも、恐ろしい筋書きだった。

七月、案の定、道家の対応に苛立った興福寺が再び蜂起した。そこで十月、道家は、六波羅に大和への出兵を要請した。ここまでは、道家の目論見通りだった。


しかし、道家は北条を侮り過ぎていた。執権北条泰時は、気前よく軍勢を動かすようなお人好しではない。泰時は、出兵の条件として次の事を要請してきた。

「今後、暴徒鎮圧に際して、僧侶・神官を殺害しても不問にしてもらいたい」

平安の御世から、僧侶や神官を殺傷した武士は罰せられる。泰時は今回の騒動を収めるために、これの撤廃を朝廷に要求してきたのである。道家は、武家に格好の口実を、むざむざ与えてしまった事を悟った。しかし、もはや後の祭りだった。

抵抗すれば、僧侶・神官も切られる。震え上がった興福寺は、まもなく屈服した。

『東関の武略によって、南都の落居に及べり』(九条道家告文・『院政』二三〇頁)

“幕府の武略によって、興福寺は屈服に至った”

結局、騒動を収めたのは『東関の武略』だった。幕府の力が、改めて天下に示されたのである。こんな筈ではなかった。「隠岐院の時代」ならこんな不始末は起きなかった。

道家の中で、昔日を想う気持ちがますます強くなった。

しかし、道家が帰京を切望していた後鳥羽上皇は、一二三九年、隠岐で亡くなった。

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