【末代の英主】
一三二四年二月、幕府から朝廷に申入れがあった。「元享の悪党鎮圧令」という。
①悪党を捕えない荘園は、守護が没収する(没収地の処分は公家に任せる)。
②南都北嶺とて例外にはしない。また、在京の僧を調査し、もとの寺へ帰住させる。
つまり、朝廷も寺社も関係なく、幕府が踏み込むと言い出したのである。悪党対策を装った、統治権の侵害だった。後醍醐天皇は、やむなくこれをのんだ。
意外にも、鎌倉幕府の最盛期は、この頃である。一方で、看過できない事に高時政権になってから、新法令がほとんど出されていないi。幕府は、変革を止めたまま、膨張だけを続けていた。しかし、そこまで事情を理解していない後醍醐は、単に危機感を強めた。
二月二十日、病床の後宇多法皇は、後宮の永嘉門院(【ねじれ政局】参照)に室町院領の持分を譲った。その上で、吉田定房を介して、持明院統に「室町院領の持分を女院に返して欲しい」と要請した。二十五日、幕府も、これを支持する姿勢を見せた。
『此の事一向貞顕張行す』(花園天皇宸記)
“この件では、(吉田家と仲が良い)鎌倉の金沢貞顕が動いている”
永嘉門院は、皇太子邦良親王の後見人である。法皇の狙いは明白だった。皇太子の力を増大させ、討幕計画を練る後醍醐を、退位に追い込むつもりだったのである。
三月、後醍醐と親しい僧文観が、大和般若寺に文殊菩薩像を設置した。この像の施主は伊賀兼光といい、“六波羅の引付衆”であった。しかも、像には次の文句が書かれていた。
『金輪聖主御願成就』(「異形の王権」二〇二頁)
“帝の願いが、かないますように”
「願い」とは、“討幕計画の成功”を指す。後醍醐の討幕計画は、既に実行の段階に移ろうとしていたのである。これが失敗すれば、朝廷は存亡の危機に立たされるだろう。
しかし、一三二四年六月二十五日、後宇多法皇がついに力尽きた。
愛妻と嫡子に先立たれ、その後も、ひとり大覚寺統を切り盛りした老人の死だった。
賄賂政治、後醍醐への煮え切らない態度。法皇には非難されるべき点も多い。
しかし、一三二一年に引退するまで、一貫して敏腕を見せたのも事実である。
この法皇は、功績の割に、あまりにも報われなかった。
『晩節脩らずと雖も、末代の英主なり』(花園天皇宸記)
“晩節はばからずといえど、末代の英主だった”
花園上皇は、長年の政敵の死を、そう嘆いた。




