【脱線八・逆お家騒動】
一三二三年四月九日、後伏見上皇は西園寺実衡を介して弟花園上皇に書状を送った。
『長講堂領幷に播磨國已下の御領、悉く管領すべし』(花園天皇宸記)
“(いいかげんに、)持明院統の荘園を相続せよ”
後伏見は、弟に政務を譲るのを、諦めていなかった。前年の春に拒絶されたというのに(【何故幕府を倒すのか】参照)、この年の春も“お家騒動”は起こった。
但し、「家督を譲れ」「いや渡さん」ではなく、「家督を継げ」「いやです」という騒動である。この手の騒動は、時代劇ならともかく、現実には他に例がない。
結局、この日も、花園は相続を承諾しなかった。
十一日、さすがの後伏見も痺れを切らした。早朝、花園は兄から呼び出され、日野俊光を間に挟んで再度長講堂領を相続するよう命じられた。
『再往固辭。然り而して仰する旨嚴密。其の恐れ有るの間、憗に以て領納なり』
“再三拒絶した。しかし、(兄君の)剣幕があまりに凄いので、相続すると言ってしまった”
『委細記す能はざるのみ』
“その間にあった遣り取りの詳細は、とうてい書き残せない”
どこか肩を落として退出していく弟だったが、兄の方は一仕事を終えた顔をしていた。
しかし、花園は諦めなかった。後醍醐天皇に対して覚えた不信が、上皇の心に重くのしかかっていたからである。今、自分が身を置くべきは、執務の場ではない。
『猶然るべからざるの事等是れ多し』
“やはり、納得がいかない”
十五日、花園は迷惑顔の俊光に相続を断る旨を伝えた後、更に右大臣(今出川公衡だろうか)を呼んだ。しかし、右大臣が病を口実に来ないと知るや、俄かに菊第に向かった。
『御問答の時、所存委細に及ばざるなり。仍て領状の由思食さるるか。以ての外の事なり』
“(先日)話し合った時、私の考えを詳しく申し上げていませんでした。それで、相続を認
めたと勘違いされたのではありませんか。もってのほかの事です”
こうして花園は、この時も持明院統の家長になる事を固辞しぬいた。
この事について、後伏見の側近達から、色々非難があった。しかし、花園曰く。
『燕雀豈鴻鵠の志を知らんや。小人嘲ふなかれ』
“彼らに私の志の何が分かる。小人あざけるなかれ”
花園が、「台記」(源平合戦開始時の記録)を研究し始めたのは、十二月からである。




