【後醍醐天皇の親政】
一三二二年二月、後醍醐天皇は、年中の官位除目と叙任の回数を、昔の形に減らした。
『政道は淳素に歸すべし』(花園天皇宸記)
“政治というのは簡素であるべきだ”
これを聞いた花園上皇は、「尤もだ。帝は朝廷を建て直すかもしれない」と喜んだ。
この時期、政権を譲った父後宇多法皇は腰痛で病床に就き、皇后の父である西園寺実兼も死病に倒れている。名実共に、後醍醐天皇の時代が始まろうとしていた。
『夙に起き、夜半におほとのごもりて、民の憂へをきかせ給ふ。』(神皇正統記)
“早朝に起き、夜遅くに寝るまで、民の訴えに(自ら)耳を傾けられた”
このような善政は、京極為兼がいた伏見法皇の時代、賄賂が横行した後宇多法皇の時代を忘れさせるものだった。
十八日、上皇と日野資朝が、深夜まで文学・仏教の話をした際にも、帝の話は出た。
『当時の政道正理に叶ふ』(花園天皇宸記)
“今の帝の政治は、道理にかなっている”
二十三日、この風潮を後押しするため、上皇は尚書(儒学の本)の講義を始めた。
『近代儒風大廢し、近日中興す。然り而して未だ廣きに及ばず。或は異議有り。人の過を解かんがため、殊に談ずるところなり』
“廃れていた儒学が、近頃(帝によって)見直されている。しかし、未だその風潮は広く及んでいない。間違った見解も横行している。これを解くため、特に講義を行なう“
一三二四年三月まで続く、この「尚書談義」は月六回。資朝ら多くの俊英、時に後伏見
上皇・量仁親王も参加し、日々講義と議論がなされた。のちの北朝の帝王学は、ここで誕生したと思われる。更に、後年には、「論語」の講義もなされた。
四月七日、中納言北畠親房が検非違使別当(警察権を併せ持つ都長官)となった。この親房のもとで、検非違使庁は京の商人や寺社神人(流通に大きな役割)を朝廷の傘下に加えていった。またこれらと並行し、日野資朝らの手引きで、寺々の僧や悪党が、帝の周囲に集められていった。のちに、これらが討幕勢力となり、南朝に引き継がれていく。
この年春、出羽では蝦夷管領安藤氏の内紛が激化していた。
津軽安藤貞季と秋田安藤宗季・季久兄弟による家督争いである。
両陣営は、共に御内人であるため、幕府に裁定を求めた。しかし、内管領長崎高資(円喜の子)は双方から賄賂を受け取った。そのため、幕府は裁定を下せなくなった。