【脱線七・日野資朝と老犬】
後醍醐天皇を支えた側近達。多くは学問を研鑽した者達である。
彼らは、大きく、二つの層に分かれていた。
・父の代からの側近:所謂「後の三房」。吉田定房・万里小路宣房・北畠親房。
・後醍醐自身の側近:日野資朝・日野俊基・四条隆資・千種忠顕ら。
前者は、後宇多法皇が送り込んだ“お目付け役”としての色合いが濃い。
そのため、後者との間には、「世代間断絶」ともいうべき齟齬があった。
後日、それに拍車が懸かったのは、後者が公家社会の異端児達だったからだろう。
その代表格が日野資朝である。日野家は、本来持明院統派である。しかし、資朝は持明院統の花園上皇と友情を育てる一方で、政治的には後醍醐天皇に重用されていた。
その資朝には次のような逸話がある。ある時、西大寺の静然上人が参内した。腰は曲がり、眉は白く、その姿からは長年に渡る仏道修行で得た威徳が窺い知れた。
その様子を見ていた西園寺実衡(西園寺実兼の孫・故公衡の子)はつぶやいた。
『あな尊の気色や』(徒然草・第百五十二段)
“何と、尊いお姿だ”
しかし、それを横で聞いていた日野資朝は、こう応じた。
『年の寄りたるに候ふ』
“(ただの)年寄りです”
後日、資朝は「贈り物」を西園寺邸に送り、使者にこう伝えさせた。
『この気色、尊く見えて候ふ』
“この姿が、尊く見えたのでお持ちしました”
実衡は仰天した。差し出されたのは“老いて毛の禿げたむく犬”だったのである。
当時、西大寺には、得宗家の所領経営を手伝って理財をなす僧や、仏法をもって朝廷・幕府の指導層に取り入る僧が数多くいた。
どうやら資朝は、そんな西大寺の老僧が、お気にめさなかったらしい。
無論、こうした姿勢は、公家社会への挑戦と捉えられかねなかった。
そして、だからこそ、皇后の父西園寺実兼や、諫言役吉田定房の評判は上がった。
『はかばかしき人のさふらはぬ故にこそ』(徒然草・第百十八段)
“しっかりした者が、側に仕えていないからこうなる”
例えば、慣習を守らない皇后の側近を叱った実兼の逸話が、好意的に残されている。




