【辛酉の年】
一三二一年は、「辛酉の年」にあたる。「政治を革める」という意味を持つ年だった。
持明院統にとっては、待望の年の到来である。
二月、後醍醐天皇は、公卿会議の提言を容れて、辛酉革命説を否定した。そして、従来とは異なる理由で改元を行なった。これは、退位を望む声を、かき消すためだった。
しかし、後伏見上皇(持明院統の総帥)は、この機を逃さなかった。
『ことしは旧きを革めて新しきをたつべき天運なり』(盧山寺文書i)
『すでに使を東関に遣して思ところを述べんとす』
“今年は辛酉の年、帝が退位すべき年です。すでに幕府に使者を送りました”
十月四日に、後伏見が捧げた、岩清水八幡宮への願文である。後伏見は、「辛酉の年」を口実に、幕府に対して、後醍醐天皇の退位を働き掛けたのである。
後醍醐は、自らの目論見が甘かった事を痛感した。
十月十六日、後宇多法皇が、大納言吉田定房(後醍醐の傅役)を鎌倉に向けて発たせた。その目的は、「後醍醐天皇への政権移譲」を幕府に打診する事であった。
定房が交渉役に選ばれたのは、法皇と天皇が、共に信頼する臣下だったからである。
『凡そ定房卿は常に直言を納るる』(花園天皇宸記)
“定房卿は、事あるごとに、後醍醐天皇に諫言をしている”
宮中でも評判の一徹者なら、法皇と天皇のどちらも裏切らない。このような人選は、背後にある、法皇と天皇の側近団の緊張関係を物語っている(増鏡)。
法皇は、この時点でも政治案件のほとんどを決裁していた。そんな法皇が、簡単に引退するとは考えにくい。おそらく、後醍醐側が、政権移譲を強力に求めたと思われる。
口実は、さしずめ「親政を始めて、“政治を革め”、持明院統の声を消す」だろう。
法皇は、しぶしぶこれをのんだ。以前、後醍醐が政権を握る事を認めていた(【約束】参照)うえに、この頃政権の腐敗を内外から指摘されていたからである。
『政、賄を以て成す』(花園天皇宸記)
“政治で賄賂が横行している”
十一月、鎌倉に着いた定房は、周到な用意をしたうえで、交渉にのぞんだという。
『吉田大納言定房爲勅使下向、御治天下之事、數十ヶ條被仰合云々』(鎌倉年代記裏書)
“勅使吉田定房は、のべ数十ヵ条に及ぶ、親政に関する規定を提示し、交渉に臨んだ”
これに感心した幕府は、申し出を承諾した。十二月、親政が開始された。