【儒学奨励と蝦夷蜂起】
前段の花園上皇は、あるいは後醍醐天皇に触発されたのかもしれない。
一三一九年秋頃、宮中では儒学奨励運動が起きていた。
『冬方朝臣・藤原俊基等、此の義殊に張行の者なり』(花園天皇宸記)
“吉田冬方・日野俊基らが、旗振り役をしている”
何かと風紀が乱れている、宮中の綱紀粛正が目的だった。
もっとも、腐敗を指摘された側には、これが面白う筈はない。一部の公卿が、俊基らに反発した。その点、花園は俊基らを次のように擁護している。
『仕朝の士、隱を以て難ずべからず。隱山の士、仕朝を以て難ずべからず』
“人にはそれぞれ役割があるのだから、俊基らが役割を果たすのを非難すべきではない”
わざわざ、「隠者」などときわどい表現を用いているのは、出家できなかった事を引きずっているからだろう。とはいえ、言わんとするところは、正しい。
ただ、当時の「腐敗」の元凶は後宇多法皇に他ならない。善政が奨励される一方で、強引な人事と賄賂が横行していた。後醍醐の儒学奨励は、法皇への挑戦にも見える。
この頃から、法皇と天皇は、半ば公然と仲違いするようになっていた。例えば、十一月十五日、後醍醐の母五辻忠子(談天門院)が逝去した際も、法皇は冷たかった。
『後聞く、法皇御喪籠の儀にあらず』
“後に聞いたところ、後宇多法皇は喪に服さなかったそうだ”
ここで、北に目を転じたい。翌一三二〇年、数年間小康状態にあった出羽で、蝦夷が再び蜂起した。蝦夷は、北海道を中心に、狩猟と漁業と交易を営む民である。
「北の海」は日本海と太平洋が出合う要所である。日本全国はおろか、元・高麗との交易も盛んで、莫大な富が動いた。得宗家も、「鎌倉‐津軽」間を往復する船に特権を与え、北の経済活動に参加している。その最大の湊、津軽十三湊を支配するのが安藤氏だった。
この安藤氏が、一族で対立を始めた事が、蝦夷蜂起のきっかけとなったという。
しかも、この年、日本列島はかつてない寒波に襲われていた。
『五六旬の老人皆云ふ、未だ此くの如き寒有らず』
“五十六十の老人は口をそろえて、こんな寒さは体験した事がないと言っている”
『北國の人、寒死に遇ふ者十の五六と云々』
“北国の人は、十のうち五六が凍死したそうだ”
三月二十四日、後醍醐天皇は、この危機に日野資朝を蔵人頭(実務の要職)に抜擢した。