【民政家九条道家―ある貴族の決意―】
鎌倉幕府第四代将軍、「九条頼経」は、父が九条道家で、母方の祖父が西園寺公経である。九条家と西園寺家。鎌倉殿九条頼経の誕生は、この閨閥が機能した結果であった。
そして、この事が、父親の九条道家の運命をも変えた。
一二二一年、承久の乱で後鳥羽上皇が敗北し、摂政九条道家は、位を近衛家に譲り渡した。しかし、道家は、将軍の父である。承久の乱で幕府に味方し、戦後太政大臣になった舅西園寺公経の後ろ盾もあって、一二二八年関白に返り咲いた。
朝廷は、何よりも、血縁が物を言う世界だった。
こうして、復権した道家は、舅と共に朝廷を主導した。一二三〇年には、娘竴子が後堀河天皇の皇子を産んでいる。この皇子こそ、最初に登場した四条天皇である。
道家は、「子が将軍で、孫が皇太子」という、鎌倉時代でも有数の閨閥を築いた。
しかし、“藤原の氏長者”である道家は、この現状にむしろ憤りを覚えていた。後鳥羽上皇が島流しにされ、摂関家が武家の顔色を伺う「現状」。これでは、栄華とは程遠い。
一二三二年、道家は後堀河天皇を強引に退位させ、孫の四条天皇を即位させた。
『其の上更に違異あるべからず』(民経記i)
“その上の異論は認めない”
幕府はこれに反対したが、道家はそう言い放ったという。
次いで一二三三年、道家は朝廷の求心力を回復するため、ある改革案を打ち出した。
『後白川院・隠岐院の御時、世務の失、多くこれに在るか』(九条道家奏状ii)
“後白河院、後鳥羽院の治世では、政治の失敗が多くあった”
『官位昇進の事、訴訟決断の間、能く謹慎せらるるは、政道の肝要たるか』
“官位の昇進と裁判の判決、この二つを正しく行なう事が、政治の要である”
まもなく、有能な下級(中原氏・小槻氏ら)・中級貴族(平氏・吉田氏・葉室氏ら)が登用され、彼らで諮問機関(親政時なら「記録所」、院政時なら「文殿」)が組織された。
そして、朝廷に持ち込まれる訴訟が、『道理』に基づいて審議されるようになったのである。九条道家の大改革によって、朝廷は急速に息を吹き返した。
断っておくが、道家は後鳥羽上皇に批判的な人物ではない。大叔父の慈円とは違う。むしろ、後の行動を見る限り、上皇の時代を懐かしんでいる節さえあった。その道家が、敢えて上皇らを名指しで非難し、朝廷改革を訴えている。道家の決意は固い。
後世、「徳政」の始まりと評されるこの改革は、内外から評価を受けた。