【鎌倉と六波羅】
一三一九年春、六波羅は、山陽・南海の十二ヵ国に、奉行人と両六波羅の家人を一名ずつ派遣した。その任務は二つ、現地の守護代と協力して悪党の籠もる城郭を焼き払う事と、海賊が根城とする湊に地頭を駐在させて海路の安全を確保する事であった。
『兩三年ハ靜謐ノ由ニテ有リシ』(峯相記)
“その後二三年間、(播磨国は)静かになった”
これが、一定の成果を収めた。
勢いを得た六波羅は、その後、常時、地頭を海上警固に張り付かせた。これに危機感を覚えた“悪党”らは、警固役に対して盛んに賄賂を贈り、討伐を免れたという。
これらの一連の積極策は、六波羅の独走だったのか、あるいは幕府の指示だったのか。
この年五月から翌年九月にかけ、幕府は「六波羅管轄国六ヵ国」を直轄国に編入している。対象となったのは、加賀・美濃・尾張・三河・伊勢・志摩の六ヵ国である。
いずれも、長年六波羅の管轄国だったが、この時期だけ、幕府が管理した。
この措置について、「幕府が六波羅の独走を牽制した」と見る見解と、「幕府が六波羅の負担を肩代わりし、六波羅を援護した」と見る見解があり、対立している。
前者を採用するなら、次のように論が進められる。
・「鎌倉時代末期、鎌倉と六波羅は対立し、それが後醍醐天皇に跳梁する隙を与えた」
後者を採用するなら、次のように論が進められる。
・「六波羅が、幕府に管轄六カ国を委ねたのは、南方の大仏惟貞(大仏宗宣の子)の奇策であろう。北条にとって、悪党の活躍は、ことほどさように深刻な問題だった」
両説とも決め手がないので、判断は保留しておく。しかし、鎌倉幕府が滅んだ一因が「悪党の活躍」であり、この出来事が、その重大な伏線となった事だけは確かである。
『奥州惟貞下向ノ後ハ彌蜂起シ。正中嘉曆ノ比ハ其振舞先年ニ超過シテ耳目ヲ驚ス』
“一三二四年、大仏惟貞が(任を終え)鎌倉に帰った後は、いよいよ悪党が蜂起した。
一三二四~一三二八年頃、その活動は以前をはるかに超え、諸人の耳目を驚かせた”
『吉キ馬に乗リ列リ。五十騎百騎打ツヅキ。引馬。唐櫃。弓箭。兵具ノ類ヒ金銀ヲチリバ
メ。鎧腹卷テリカガヤク計リ也』
“(悪党は)良馬に乗って、五十騎百騎で活動し、立派な武具を身に付けるようになった”
これらは、「悪党の成長」というよりも、「より豊かな層が、悪党として、北条と対立するようになった」と解すべきである。動乱前夜、北条は静かに孤立しつつあった。




