第四章:討幕【後醍醐天皇の即位】
一三一八年二月、後醍醐天皇が即位した。天皇は御年三十一歳である。
しかし、政治は父後宇多法皇が行なった。法皇は、時期をみて皇太子邦良親王を即位させるつもりだった。「この孫こそ大覚寺統の後継ぎ」、法皇はそう考える。
そのため、天皇と法皇の関係は、良好とは言い難いものだった。しかし、両者はそれなりには周りが見えたので、あからさまな対立は避けていた。
その緩衝材となったのが、天皇の姉奨子である。奨子は五辻忠子の娘だが、父との仲が良く、父と弟の仲を取り持ち続けていた。三月、後醍醐はこれに報いるため、姉を皇后に立てた。勿論、本当の皇后ではなく、単に地位を与えた“名誉皇后”である。
京極為兼の失脚後の混乱に乗じ、天皇と皇太子を大覚寺統で独占した今、いかに持明院統を封じ込めるかが目下の優先課題だった。内輪もめどころではなかったのである。
翌一三一九年一月十四日、持明院統の後伏見上皇・花園上皇が、西園寺邸を訪問した。
持明院統とて、手をこまねいていた訳ではなかったのである。関東申次との関係を修復し、いずれ皇位を奪回する。これがならねば、持明院統に明日はない。
しかし、何故わざわざ二人で。どうも後伏見上皇は、この数年で貴族達が手のひらを返していく様子をみて、結局「兄一人、弟一人」である事を悟ったらしい。花園の日記には行幸(お出かけ)や儀式に参加する公卿の名が逐一記されているので、公卿達が手のひらを返す様子を、ある程度追う事が出来る。父の死後に起きた一連の騒動が、この兄弟の関係を変えた。後伏見が、宴席への出席をしぶる花園を、無理に引っ張り出した事は一再ならずある。この日も、実兼と一人で会うのが億劫なので、同行させたと思われる。
だが、この日、家主の西園寺実兼は、ついに姿を見せなかった。
『起居叶はざるに依り、兼ねて靑障子を儲け候するの由』(花園天皇宸記)
“病で起き上がれないので、青障子を設けてその陰に仕候すると伝えてきた”
これは本当だろうか。三月二十七日にも、両上皇は西園寺邸を終日訪れている。しかし、その日も実兼は“留守だった”。代わりに、ひ孫の公宗が散策のお供をしている。
五月十五日、一計を案じた両上皇は、さる「琵琶」を修理させ、西園寺邸を訪れた。
琵琶は、西園寺のお家芸である。両上皇の計らいに、さすがの実兼も姿を見せた。
『近年此くの如き一獻の席に候せずと雖も、故に三獻に祗候すべき』
“近年、このような席には出ておりませんが、本日は三献ばかりお付き合い致します”
しかし、そう言った家主は、しばらく席を共にした後、再び奥に戻っていった。