【文保の和談】
京極為兼の逮捕後、伏見法皇が討幕を策しているという噂が流れた。
『いかでか不義を存ずべきや』(「南北朝の動乱と王権」一一〇頁)
“幕府に不義をはたらくなど考えもしない”
これに慌てて、一三一六年十月、法皇が幕府に送った起請文である。しかし、幕府はこれ以降、持明院統に対して拭い難い不信を持ち、大覚寺統に肩入れするようになった。
父貞時の「先例」に従い、御曹子北条高時が、十四歳でようやく執権に就いたばかりの幕府である。長崎円喜らは、絶えず周囲に目を光らせていた。
翌一三一七年三月、高時が相模守となった。これも祖父時宗の「先例」である。
先例を重んじる政権では、温厚な人物が好まれる。連署は、引き続き金沢貞顕が務めた。一年で出家させられた前執権普音寺基時こそ、良い面の皮だろう。
こうして、最後の得宗が表舞台に立った。後代、高時は次のように評される。
『すこぶる亡気の躰にて、将軍家の執権も叶いがたかりけり』(保暦間記)
“無気力で、執権職を務められるような人物ではなかった”
しかし、当時の幕府を動かしたのは、長崎円喜と安達時顕である。
一三一七年四月、持明院統と大覚寺統の間で、今後の皇位継承について協議が行われた。
『春宮踐祚の後、後二條院の一宮立坊あるべし』(花園天皇宸記)
“尊治親王が即位した後は、邦良親王(後二条天皇の遺児)を即位させてもらいたい”
つまり、「持明院統の量仁親王が即位するのは、二代ほど待って欲しい」というのであ
る。それが、大覚寺統側(後宇多法皇)の主張だった。こんな勝手な主張があるか。
交渉は一旦決裂した。しかし、九月、伏見法皇が死去する。中心を失った持明院統は追
い込まれ、その抗議の声も、西園寺実兼によって封じられた。
こうして一三一八年二月、花園天皇が退位した。幕府は一貫して退位を望んだ。関東申次の実兼も、幕府の意に従うばかりだった。花園は、この時の実兼を酷評している。
『國家の輔佐の器となすに足らず』
“国家の補佐に相応しい器ではない”
その後、花園はこの人らしい余生を送った。泰然と世を見つめ、儒学・禅・和歌に打ち込む花園を、貴族達は「変人」と陰口した。しかし、動乱期にあって、花園だけが理性的だった。花園の日記がなければ、鎌倉時代末期の再現は不可能だったといわれている。
本書でも、この日記に従い、国の停滞を破った「後醍醐天皇」の登場を記したい。




