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【謎の失脚】

一三一五年三月八日、鎌倉が、またもや火事で焼失した。

『関東大焼亡、将軍御所・左馬権守屋形以下、相州、奥州、相模左近大夫、武蔵左近大夫、

 八幡宮上下、建長寺門等悉滅亡』(公衡公記i)

つまるところ、ありとあらゆる建物が、ことごとく焼失した。

『当時将軍ハ讃岐守基時亀谷亭ニ御座』

“火事が起きた時、将軍守邦王は北条基時の屋敷におわした”

その際、普音時基時(普音寺業時の孫)は、将軍の安全を確保する事に成功した。


四月二十四日、京極為兼が、一門一党を引き連れ、春日神社に参拝した。

『種々の願を果たさんがため』

“(長年の)数々の願いを果たすためであったという”

やがて、首座に着いた為兼の前で、蹴鞠がおこなわれ、延年舞・童舞が奉納された。

『儀の厳重、臨幸の儀に異ならず。摂関の礼を超過する者か』

“儀式の厳重さは、まるで天皇の儀式のようでした。摂関家を越える礼式でした”

臣下が何故それを行なう。その模様は、この頃病に倒れた、関東申次の西園寺公衡にも伝わった。公衡は病身をおして、弟覚円僧正から、儀式の詳細を聞いた。

二十八日、春日神社で歌会が開かれた。出席者の和歌に加え、都から送られた和歌が披露された。摂関家・公卿、そして“無名”の和歌が二首。伏見法皇らの和歌だろう。

事実上、朝廷上層部の大半が参加していた。こんな不可解な歌会は前例がない。

五月十日、病床の公衡は、日記の中で為兼の権勢を嘆いた。十七日、関白近衛家平が病で辞任した。そのため、朝廷は幕府に後任人事を尋ねたが、鎌倉を復興中の幕府は、「朝廷に委ねる」と回答した(正和五年三月四日伏見法皇事書案・「京極為兼と公家政権」)。


 七月~八月、復興中の鎌倉で、執権北条煕時が亡くなった。そして、遅くとも九月十日には、執権普音時基時・連署金沢貞顕の新政権が誕生した。しかし、諸記録が記す、これらの日付は一致しない。どうやら、正確な記録が残せない、混乱にあったらしい。

いずれにしろ、数ヵ月前の火事で将軍を保護した基時が、突然執権となるのである。

家格でいえば、普音寺は「連署を輩出した一門」ではある。

しかし、貞顕と比べて、実力が違いすぎる。内管領長崎円喜が、貞顕を執権にしないために立てた“傀儡”と見るべきだろう。この時期、得宗周辺は、「御曹子高時が受け継ぐ権力の座を死守する」事だけを考えていた。

九月二十一日、鷹司冬平が後任の関白となった。

しかし、新政権を発足させた幕府は、「二条道平が良かった」と難色を示した。そんな折の二十五日、公衡が永眠した(五十二歳)。そのため、父実兼が関東申次に復帰した。

だが、当時の実兼には、実衡(孫・二十六歳)という、立派な後継ぎがいる。隠居の復活には、理由があったと見られる。理由の一つは、西園寺の衰退だろう。

・伏見法皇派:京極為兼…洞院実泰(西園寺の分家、大覚寺統派ながら為兼と懇意)

・後伏見上皇派:西園寺実兼・公衡親子

公衡が後宇多上皇から勅勘を受けた過去といい。分家の影に怯え、ほとんど家来だった為兼の権勢に翻弄される今といい。これは「衰退」と呼ぶに相応しい。

 隠居の再登板は、「後伏見上皇の院政を支え、西園寺の凋落を止めるため」だった。

したがって、まもなく起こる事件について、花園天皇は後年こう記す。

『彼の讒に依り』(花園天皇宸記)

“入道相国(西園寺実兼)が幕府に讒言したのだ”


十二月二十八日、安東左衛門入道率いる六波羅の兵が、毘沙門堂を包囲した。

『六波羅數百人軍兵、馳向毗沙堂、召取爲兼候、其罪科未知』(鎌倉遺文二五七〇二号)

“数百の軍兵が、毘沙門堂に馳せ向かい、為兼を捕らえた。罪科は分からない”

入道は御内人の長老である。内管領長崎円喜の直命だった。

六波羅に連行された為兼は、翌年一月十二日、入道が守護代を勤める土佐に流された。

そして、八月二十三日、鷹司冬平が退けられ、二条道平が関白となった。

 幕府の措置は異様に厳しい。「幕府首脳部の緊張、関白人事を巡る軋轢、実兼の讒言。以上が重なり、“当事者の意図を超える大事件”となった」のである。

だが、ここまで話は進めたが、不可解な点は多い。

晩年、実兼は後伏見上皇との対面すら憚り、その一方で、京極派歌道を奉じ続けた。

その姿は、「卑劣な讒言者」とは程遠い。そもそも、権力のために讒言をする人物を、花園が『朝の元老、国の良弼』と悼むだろうか。後代の史書が、こう疑う所以である。

「実は討幕計画が発覚したのだ。為兼が犠牲となって、事を収めた」


六波羅に連行される為兼を見物する衆に混じり、一人、羨望の目を向ける者がいた。

『あな羨まし。世にあらむ思ひ出、かくこそあらまほしけれ』(徒然草・第百五十三段)

“ああ羨ましい。この世に生まれたからには、あのような思い出が欲しいものだ”

日野資朝。後醍醐天皇の側近として、討幕を始める人物である。

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