【承久の乱】
一二二一年五月十五日、後鳥羽上皇は、全国の武士に北条一族の討伐を命じた。
『義時朝臣、偏に言詞を教命に仮り、恣に裁断を都鄙に致し、剰え己の威を耀かし皇憲を忘るるが如し』(小松美一郎氏所蔵文書・承久三年五月十五日官宣旨、「日本史史料[2]中世」一一三頁)
“北条義時は、幼い将軍の言葉と偽り、鎌倉でほしいままに政治を行ない、己の威光を高め、天皇の存在をないがしろにしている”
『これを政道に論ずるに謀反と謂うべし』
“これは、謀反に他ならない”
『早く五畿七道諸国に下知し、かの朝臣を追討せしめ』
“一刻も早く、諸国の武士に、義時を追討させよ”
しかし、これは余りにも勝手な理屈だった。後白河法皇の時代に、戦乱を鎮めたのは源
頼朝である。何よりも、鎌倉幕府に、東国の支配を認めたのは朝廷ではないか。
『一往のいはればかりにて追討せられんは、上の御とがとや申べき』(神皇正統記)
“源氏将軍が絶えたという理由だけで追討を試みるとは、非は明らかに院にあった”
とは、後に南朝を率いた北畠親房(久我通親の子孫)も認めるところである。
多くの武士の感情も、同様だった。鎌倉に報せが届いた時、北条政子(源頼朝の未亡
人)は、集まった御家人(幕府に仕える武士)達にこう言った。
『いかに侍どもたしかにきけ』(承久軍物語)
“侍ども、よくお聞き”
―むかし日本国の侍は、三年の京警固を朝廷に命じられ、家臣共々着飾って上京したもの。されど、三年の奉公。最後はみな困窮し、裸足で領地に帰った。
頼朝公は、これを憐れみ、務めを半年にして下さった―
『かかる御なさけふかき御心ざしをもわすれまいらせ。こんど京かた仕らんか。またくはんとうに御ほうこう仕らんか。ただいまたしかに申きれ』
“かかる情け深きお心を忘れ、朝廷に付くか、又は幕府に奉公するか。今この場で申せ”
皆、涙を流した。武士を、「犬」から「人」にしてくれた頼朝公を想い出したのである。
『にんげんの身としてだいだいかうをんをいただき。あに木石におなじからんや』
“我等は、人間として、代々厚恩をいただいた。(情けを知らぬ)木石とは違う”
奮起した幕府軍は、朝廷方を一蹴して京に攻め上り、後鳥羽上皇らを島流しにした。
以後、「六波羅」(近畿に設置した幕府の役所)が朝廷を監視する体制がとられた