【持明院統と京極為兼】
一三一一年十月、北条貞時は、死の床で、二人の人物に我が子(高時)を託した。
『彼等二人ニ貞時世事置タリケレバ』(保暦間記)
“長崎円喜と安達時顕の二人に、世の事を任せ置いた”
安達時顕は、霜月騒動で亡くなった宗顕の子である。嘉元の乱後、貞時に引き立てられていたi。時顕の娘は高時の正室として輿入れし、ここに安達一族は復権を遂げた。
一三一二年三月、京極為兼が遂に「玉葉和歌集」を完成させた。もはや朝廷に、為兼を表立って非難できる者はいなかった。十二月、伏見上皇はこう遺言している。
『為兼卿当時知行所々、改動の儀あるべからず』(鎌倉遺文二四七六七号ii)
“為兼卿が知行している荘園は、今後も絶対に手をつけてはならない”
一三一三年六月、為兼は病に倒れた。四日、花園天皇は日記にこう記している。
『朝家に付き殊に悦たるものなり。才學無しと雖も直臣なり。又深く忠を在する人なり。歌道に於いては只一人なり』(花園天皇宸記)
“廷臣の中でも特別な者である。学才はないが、直臣である。また、深い忠節を持つ人である。歌道においては、この人を置いて他にいない”
「佐渡に流されても変わらぬ忠節」。伏見上皇や花園天皇が、為兼を特別に思うのは、それ故である。翌日、為兼はにわかに回復し、御年十六歳の少年天皇は大喜びだった。
十月、伏見上皇が息子後伏見上皇に政務を譲る事を決め、平経親が関東へ交渉しに行く事になった。九日、その報告のため、内裏に向かう経親を、突如矢が襲った。
『二條高倉に於いて騎馬の者有り。矢を發して經親の車を射、靑侍の馬の鞍に中る』
“二条高倉で騎馬の者があらわれた。その者が牛車を狙撃し、警護侍の馬の鞍にあたった”
『其の矢聊か靑侍の肱に中り、流血す』
“その矢が、警護侍のひじにあたり、流血した”
牛車の中にいた経親は、何とか無事だった。
十一日、伏見・後伏見・花園親子は、玄輝門院(伏見の母、東の御方。【粥杖事件】参照)と食事をする機会を設けた。引退前の一家団欒。伏見はしみじみと言ったiii。
『只今の儀、故院御覽じ有りシカハ』
“今日の様子を、亡き父君(後深草法皇)がご覧になったらなあ”
伏見と玄輝門院は、涙をぬぐった。傍らで給仕をする典侍典子も、静かに袖をぬぐった。
十七日、伏見は出家した。しかし、共に出家した為兼は、政務への関与を続けた。