【北条貞時の死】
一三〇九年、関東申次の西園寺公衡が左大臣に就任したが、三ヶ月で辞職した。何か事情があったのだろうか。以前に右大臣に成った時も、年内に辞職している。
『珍しげなし。一上にて止みなん』(徒然草・第八十三段)
“このまま、太政大臣まで昇進しても珍しくもない。左大臣でやめておく”
公衡は、娘寧子を後伏見上皇に嫁がせている以外に、皇室との縁を持たない。後宇多法皇・伏見上皇・花園天皇、いずれの母親も、西園寺から分離した洞院の出身である。
それを踏まえると、右の発言には何やら屈折を感じる。
この年の冬、「京極為兼が島流しで中断していた和歌の撰集を完成させつつある」という噂が宮中で流れた。これを聞いた二条為世は、阻止に動いた。一方、阿仏尼(為兼の“師母”)の子冷泉為相は、自分も参加したいと言い出した。この訴訟を「延慶の訴陳」という。
為相は関東での仕事に忙しいため、為兼と為世が訴訟の中心となった。
『永仁辞退候上は、今更争か申し出づべく候はん。』(二月八日付為相書状案i)
“以前に撰者を辞退した為世が、何で今更難癖をつけているのだ”
この頃、「京極家は持明院統、二条家は大覚寺統」というのは、公然の事実だった。
伏見上皇が、為兼の肩を持つに決まっている。それでも、為世が抵抗を続けたのは、為兼に反感を持つ一派に、期待したからだろう。一三一〇年十二月、為兼は権大納言に昇進している。公卿らにとって、為兼はますます目障りな存在となりつつあった。
しかし、この裁判は公式な判決もないまま終わった。実質は為兼の勝訴であった。
この件で看過できないのは、幕府がそれを容認した点である。関東申次が振るわず、為兼が我が世の春を謳歌する。幕府にとっては不都合な筈である。しかし、鎌倉がまたしても動揺し、朝廷まで手が回らなかったらしい。まず、一三一〇年十一月、鎌倉が焼失した。
『悉焼失了。先代未聞人殊事也』(見聞私記)
“ことごとく焼失した。前代未聞の災害である”
翌一三一一年九月二十二日、執権北条師時が、奇怪にも評定の座で倒れて亡くなった。過労か、はたまた毒殺か。十月三日、連署の大仏宗宣が執権となった。貞時が、最も信用する男である。連署には北条煕時が就いた。嘉元の乱で死んだ、時村の孫である。
何ともきな臭い。というのも、二十六日貞時も死去するからである。これではまるで、「死期を悟った貞時が師時を道連れにした」ように見えるではないか。
この世に残す息子高時(九歳)の地位を守るために。