【金沢貞顕の転勤生活】
一三〇八年十一月三日、六波羅の金沢貞顕は、鎌倉に呼び返してもらうため、釼阿に工作を指示した。六波羅で汚れ役を務め、はや六年。朝廷や寺社に手を焼く日々だったが、その甲斐あって公卿らと懇意になった。裁判制度を整え、奉行人からも支持を得た。
機は熟した。中央に戻り、出世するのだ。
『下向一事、いまハ身の大訴候に、彼障碍と成候ハん条、勿論と覚候之間、若御沙汰候ハ
ハ、此事相構無転変之様ニ、洒掃禅門へも令申給、又御意得候へと、よくよく武庫へ可
令申給候』
(鎌倉遺文二三四四〇、「鎌倉後期における京都・鎌倉間の私的情報交換―六波羅探題金沢貞顕の書状と使者―」一九頁)
“鎌倉に呼び戻してもらいたい件は、訴訟中の釼阿には迷惑かも知れない事は、重々承知している。しかし、取り計らってくれるなら、長井宗秀殿に申し上げ、長井貞秀(宗秀の子・貞顕の従兄弟にして盟友)にもよくよく意を伝えてほしい”
鎌倉時代後期、北条一門の関心は、専ら「幕府内での出世」に集中していた。貞顕もそ
の例に洩れなかったらしい。十二月七日、北条貞房が南方に赴任した。
そのため、翌一三〇九年一月、貞顕は念願叶い鎌倉に呼び戻された。
鎌倉に帰還した貞顕は、二十一日、御曹子高時の元服式で、剣を持つ役を務めた。
元々、得宗北条貞時は金沢を信用している。忌わしい政争が一段落したいま、貞時は安
心して貞顕を用いる事ができた。風一つない天候のもと、滞りなく式は終わった。
『天下の大慶この事に候』(「金沢文庫古文書」一〇四号、「人物叢書金沢貞顕」六四頁)
“天下の大慶とは、この事である”
しかし、三月十二日、長井貞秀が亡くなった。
『涙を催し候』(「金沢文庫古文書」一〇七+四九+一一五号、「人物叢書金沢貞顕」六五頁)
その父宗秀はこれに気落ちし、孫(広秀ら)の養育に専念するため、引付頭人を退いた。
代わりに、貞顕が三番引付頭人となった。八月には、二番引付頭人に昇格した。
普通なら、貞顕はその後も鎌倉に留まり、一番引付頭人、あわよくば連署へと昇進していく筈だった。しかし、貞顕は六波羅と縁があったらしい。十二月二日、南方の北条貞房が亡くなり、六波羅が空になった。翌一三一〇年二月、貞顕はやむなく引付頭人を退き、六月から再び六波羅に赴任した。今回は、北方としてだった。鎌倉時代を通じ、北方と南方の両方を経験する羽目になった人物は、北条兼時と金沢貞顕しかいない。
その陰で、連署大仏宗宣は、邪魔者を体よく追い払い、ようやく一息をついた。