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【約束】

一三〇八年八月、後二条天皇が急死したため、持明院統の花園天皇が即位した。

期せずして、政権が持明院統に戻ったのである。治天に返り咲いた伏見上皇は、天皇を後伏見上皇の猶子(簡単な養子)とした。これは、持明院統を大覚寺統のように分裂させないための措置である。その上で、伏見は京極為兼を傍らにおき、政務を再開した。

この頃、為兼は花園天皇の傅役を務め、以前に増して権勢を振るった。


この時、問題となったのが、皇太子の人選である。天皇が持明院統だから、皇太子は大覚寺統から出せる。大覚寺統の後宇多法皇は、その人選に頭を悩ませた。

可能ならば、孫の邦良親王を皇太子にしたい。しかし、まだ八歳である。

そこで、法皇は尊治親王に白羽の矢をたてた。あれは父亀山に可愛がられていた。仲も良くない。だが、有能ではある。「一代限りの天皇」としては悪くない。

閏八月三日、法皇は尊治に対し、皇太子に推す条件を示した。

①『一期之後、悉可譲与邦良親王』(御遺領処分状・『南朝史論考』五六頁)

“一期後には邦良親王に位を譲ること”、あくまで中継ぎの天皇とする。

②『以後二条院宮可如実子』

“邦良親王を猶子(簡単な養子)とすること”、後見の為なら院政を行なうことも許す。

③『於尊治親王子孫者、有賢明之器、済世之才者、暫為親王仕朝輔君』

“だが、尊治の子孫は補佐役に徹すること”、天皇となるのは尊治一代のみである。

④『天下之謳歌如虞舜夏禹者、可任皇祖之冥鑒』

“しかし、尊治の子孫の即位を、天下万民が強く望んだ場合はその限りではない”

後年、④が問題となった。「破格の業績を残せば、子孫も天皇になって良い」と解せる。法皇は、何故こんな条件を書いたのか。理由は、これだろう。

『彼親王鶴膝の御病あり』(神皇正統記)

“邦良親王は鶴膝の御病だった”

小児麻痺である。医学の発展していないこの時代、法皇は、邦良の早世を懸念した。

しかし、それだけだろうか。思うに、この辣腕家は、息子の境遇にどこか負い目を感じていた節がある。この条件は、父親として唯一の手向けだったのかもしれない。

九月、尊治は条件をのみ、皇太子となった。


その後、法皇は密教に傾倒した。何しろ、愛妻と嫡子をたてつづけに失ったのである。大覚寺統として、最低限の足場は確保したのだから、今は菩提を弔いたかった。

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