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【触れてはいけないこと】

 後宇多上皇は、七歳の時、病で死にかけた事がある。医師団が無能で、病名すら満足に診断できなかったのが原因だった。容態を心配して駆けつけた父亀山天皇はその事に不機嫌になりながらも、これは黄疸だと診断した。博識な天皇は、医学にも堪能だった。

 容態がここまで悪化した以上、灸治を行なう他ない。「東宮(皇太子)に灸治をした先例などない」とうるさい周囲の声を無視して、亀山は灸治を断行した。

 医師と傅役の土御門定実だけが近仕を許され、亀山の御前で、五箇所に灸がすえられる。定実に抱かれて灸の熱に耐える東宮の顔は次第に苦悶に歪んだ。

その時、東宮の手が、大きな手に力強く握られた。父の手だった。

『御手をとらへ、よろづに慰め聞えさせ給ふ』(増鏡)

“東宮の手を握り、ずっと励まし続けられた”

東宮は声も上げず治療に耐えた。この灸治が功を奏し、東宮は一命を取り留めた。


それから数十年が経った。今や、東宮は大覚寺統の指導者となり、天下の政務を取り仕切っている。しかし、父亀山は、晩年に仲違いしたまま逝去していた。

一三〇七年七月、後宇多の愛妻遊義門院が病死した。故後深草法皇のもとから、盗み出して十三年。夫婦仲は終生睦まじかったらしい。愛妻の死に悲観した後宇多は出家した。


一方、この時期、持明院統は後二条天皇を退位させようと、さかんに政治運動を行っている。政権を一向に手放さない大覚寺統に焦れたのである。

その断片が、伏見上皇が平経親に作成させた幕府向けの文書である。その内容は、「亀山法皇の遺言通りに恒明親王を皇太子としてはどうか」というものだった。実現すれば、後二条天皇は尻に火が付いて退位し、「後宇多(院政)―後二条(天皇)」が終焉する。そして、皇太子の富仁親王が自然と即位できる。持明院統復活の奇策だった。

しかし、完成した文書に目を通した、伏見は、この文書を世に出す事を躊躇った。

『万里小路殿、偏御向背孝道已□了』(恒明親王立坊事書案i)

“後宇多法皇は、(父亀山の遺言を破り)孝道に背いた”

親不孝者の傍流ではなく、恒明親王に大覚寺統を継がせるべきだ。この内容を知れば、後宇多は我を忘れて激怒し、持明院統そのものを殲滅しようとしてくるだろう。

数年前、「家庭問題」に口を出した西園寺公衡を籠居させた時のように(前段参照)。

『不出之』(恒明親王立坊事書案の端裏書)

結局、この文書が幕府に提出されることはなかった。

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