【海賊大暴れ】
一三〇五年七月、大覚寺統の亀山法皇が火種を蒔いたまま逝去した。
『立坊の間の事、院ならびに持明院殿御返事かくのごとし』(『宸翰英華 第一冊』四三号文書i)
“後宇多上皇と伏見上皇に皇太子にするよう頼み、返事は得てある”
八月五日付の亀山法皇の遺言である。遺言の相手は愛児恒明親王だった。
ご丁寧に、伯父の西園寺公衡を後見人にしたから、「公衡と相談して幕府の後ろ盾を得なさい」とまで書いてある。恒明は字も読めないのだから、実質は公衡への遺命だろう。
公衡は「遺命」にしたがって、政治活動を行なっていたのだろうか。
十二月二十二日、公衡は籠居を命じられた。
『伊豆・伊与両国、左馬寮等被召放云々、依院勅勘也』(公卿補任)
“後宇多院の勅勘(お叱り)により、伊豆・伊予等の所領が没収された”
西園寺に手を出すなど、普通あり得ないことである。亀山の遺命を実現しようとする公衡の動きに、後宇多は大覚寺統分裂の危機を直感したのだろう。上皇は、更に、恒明に譲られる筈だった亀山の莫大な遺領を取り上げて異母妹昭慶門院の名義で管理し、後に自分のものとした。その後、一三〇六年二月、公衡は幕府のとりなしで許された。
徳治・延慶の頃、つまり一三〇六~一三一〇年頃、熊野水軍が蜂起した。幕府はこれを重くみて、一三〇八年三月、九州にいた河野道有を四国に呼び戻し、近海の警固を命じた。しかし、抑えきれず、さらに十五カ国の軍勢が派遣されるに至り、戦闘は少なくとも八年間続いた。この大乱を「徳治・延慶の熊野海賊の蜂起」という。
この頃、得宗家は、会計に堪能な西大寺の僧達を全国の湊に派遣し、主要な湊を掌握しつつあった。この動きに、畿内の海賊が、反撃に出たのだろう。
日本は海国である。海を使えば、伊勢から常陸にも、紀伊から薩摩にも行ける。当時の海賊達は、その程度のことをやってのけた。こんな機動力をもつ連中を討伐するなど、不可能である。それでも、北条氏は海賊を取締まろうにとした。このあたり、海賊を海上警固に利用した、後年の室町幕府とは対照的である。興福寺といい(【南都闘乱】参照)、海賊といい、鎌倉幕府は、西国の政治問題から脱け出せなくなりつつあった。
蜂起が一段落した頃、幕府は橘氏(後の安宅氏)と小山氏を紀伊に土着させた。いわば、放し飼いの番犬である。しかし、北条氏の見通しは甘かった。番犬は鎖に繋いで、毎日世話をしてこそ番犬をやってくれるのだ。土着した両氏は、いつのまにか現地の海賊と利害を共有する勢力と化した。北条氏は、この種の過ちを、以後重ね続ける。