【嘉元の乱‐鎌倉幕府停滞のはじまり‐】
一三〇四年十二月、引付頭人が五人編成に戻った。その際、北条宗方は引付頭人を退き、内管領となった。幕府の内輪揉めは、まだ続いていたらしい。
翌一三〇五年四月二十二日、鎌倉で大地震が起き、得宗北条貞時の館が焼失した。
『禅門被移了相州師時岩所』(見聞私記)
“得宗貞時は執権北条師時邸に移った”
そんな中、(三浦)和田茂明ら十二名は、内管領から特命を受けた。曰く、連署北条時村が、混乱に乗じて謀反を企てている。先鋒としてこれを討て。
翌二十三日夜、茂明らは「得宗の仰せ」と号して連署邸に踏み込んだ(保暦間記)。
“謀反人”は家臣と共に防戦してきたが、茂明らは、見事これを討ち破った。
後日、関与が噂された六波羅の金沢貞顕も、長井父子を介し、得宗に誓紙を提出してきた。だが、なぜか時村の殺害は「誤殺」とされ、英雄十二名は「召籠」となった。
二十八日、北条煕時(時村の孫)が所領を安堵された。
『前入道殿御計之条、顕然』(『嘉元三年雑記』i)
“(これが)得宗の計らいなのは、明白である”
身の危険を感じた茂明は、一人鎌倉を逐電した。五月二日、白井胤資ら他の十一名が、斬首に処された。そして四日、内管領が、大仏宗宣と宇都宮貞綱に誅殺された。
『既欲攻寄之處、宗方聞殿中師時舎官閤同宿、禪騒擾。自宿所被參之間、隱岐入道阿淸爲宗方被討訖』(鎌倉年代記裏書)
“(宗時と貞綱が)攻め寄せようとした時、宗方は館で、執権邸が騒がしい事を耳にした。宗方が、(得宗に弁明するためか)執権邸に参上したため、佐々木時清が討たれた”
宗方は、厩前で時清に阻まれ、刺し違えたという(実躬卿記)。これを機に、宗宣と貞
綱が出撃し、宗方の家来が方々で討たれた。また、金沢顕茂(貞顕の甥)が自害した。
六月十日、山内殿で評定が開かれた。しかし、そこに得宗と宗宣の姿はなかった。
『入道殿当時無御出仕候。陸奥殿同無出仕候』(『高野山文書』「又続宝簡集」七八ii)
“得宗殿は出席しなかった。大仏宗宣殿も出席しなかった”
つまり、黒幕は貞時だったのだろう。「連署を消して実権を握る」予定がどこかで狂い、宗方の口を封じた。そして、居直ったのである。以後、貞時は政治を捨てた。
その陰で、茂明は逃げ伸びた。一三一七年、茂明は領地の越後で、子供に譲り状を書いている。幕府は茂明を許したのである。それが温情だとは、口が裂けてもいいたくない。