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【当事者達の晩年】

一三〇三年五月、老齢の亀山法皇に皇子が誕生した。恒明親王という。

母親は、西園寺瑛子といい、実兼の娘である。

瑛子は、一説に、二条の隠し子といわれている。

晩年における、孫より幼い愛児の誕生。

この出来事は、西園寺の思惑も絡み、大覚寺統を揺るがす問題に発展した。

大覚寺統の“家庭事情”。気が付けば、「亀山(祖父)―後宇田(父)―尊治」の三世代には複雑な関係が生まれていた。しかも、原因の大半は亀山にあるといえた。

①亀山が、後宇多上皇の後宮にいた五辻忠子を寵愛している(今や准三宮である)。

②それに伴い、尊治親王(一応、後宇多の子・前年親王となる)が地位を高めている。

③亀山に、溺愛の末子、恒明親王が誕生した。

①・②は、幕府を睨んでの政治行動でもある。しかし、③の恒明親王は後宇多の弟であり、子ではない。亀山と後宇多の仲は一気に冷え込み、かくして大覚寺統は分裂した。


 十二月、鎌倉では内管領平宗綱が失脚した。そして、上総に流され、そのまま生涯を終えた。復権後、僅か二年九ヵ月。得宗の補佐役候補が、まず一人減った。


翌一三〇四年七月十六日、後深草法皇が六十二歳で亡くなった。

十七日夜、葬礼が行なわれた。その日、月は不思議と澄み渡っていたという。

棺を運ぶ御車が通り過ぎる間、伏見上皇はその場に倒れ伏し、泣き続けた(公衡公記)。

『七旬の老僧面に子孫継躰の栄昌を見奉る。希代の幸運自愛志深く候。御幸六日一定候や。心本無く候』(伏見天皇宸翰法華経・「天皇の書」一五二~一五四頁)

“老い先短い老僧にとっては、子や孫の栄達した姿を見るのが何よりの幸せです。

六日には間違いなく来てくださるのだろうね。それが心配です”

正月に後深草が伏見に送った書状である。両者のわだかまり(【立かへるならひ】参照)は、京極為兼の赦免も手伝って、いつのまにか消えていたらしい。

また、葬列を見物する衆に紛れて、尼の姿も見られる。二条だった。

あれほど仲の悪かった東二条院(後深草の皇后)も、この一月に亡くなった。

西園寺実兼もこれを機に引退し、息子公衡に関東申次職を譲るつもりだという。

『つらく覚えしこそ、我ながらせめてのことと思ひ知られ侍りしか』(とはずがたり)

“この別れを、つらいと思える事こそ、せめてもの救いなのかもしれません”

皆、時の前には無力である。二条は、葬列を照らす月を、しばらく見つめ続けた。

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