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【天の夢 地の道】  作者: ヒデキ


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【金沢貞顕の手紙】

 一三〇二年七月、金沢貞顕は六波羅に赴任した。一度六波羅に赴任しておけば、連署になるのも夢ではない。しかし、貞顕の心は複雑だった。六波羅は「将来抜擢したいが、今鎌倉にいると困る人物」に任される事も多い赴任先である。得宗に信頼された父顕時が前年他界した今、鎌倉で、誰があらぬ讒言をするか分かったものではなかった。


 そこで、貞顕は鎌倉との連絡を密にした。今日、貞顕の手紙は「金沢貞顕書状」と呼ばれ、鎌倉時代末期を語るに欠かす事が出来ない。手紙の相手は釼阿と長井貞秀だった。

釼阿は、祖父金沢実時が整備した称名寺の僧で、一三〇八年貞顕の後押しで寺の長老となる人物である。一方、貞秀は、長井宗秀の子で、貞顕にとっては従兄弟にあたる。

 釼阿は専ら、貞顕と貞秀の間を取り持つ役だった。よって、大事なのは「旧安達派の金沢氏と長井氏の連携」である。例えば、一三〇三年二月二十六日にこんな手紙がある。

『中書御事をこそたのみ思まいらせ候へ、掃部御方能々申され候て、掃部又吉様に申され 

 候はむに、一ささへはなと候はさらんと覚候』

(『金沢文庫古文書』九六+一〇、『鎌倉遺文』未収+二一七一四、永井晋「鎌倉後期における京都・鎌倉間の私的情報交換―六波羅探題金沢貞顕の書状と使者―」二〇頁)

“長井貞秀を頼るのだ。父宗秀殿に口添えしてくれる。宗秀殿が、金沢にとって良いよう、周囲に言ってくれよう。一支えもきっとある”

貞顕は、釼阿にこんな連絡を取っている。長井貞秀の父宗秀は、御家人の長老として、引付頭人・越訴頭人を担っている。金沢にとって、宗秀の存在は「生命線」だった。


貞顕がここまで身の安全に気を配ったのは、「旧安達派への抑圧」があったからに見える。この時期、得宗派と執権・連署派の睨み合いと並んで、「得宗の補佐役を誰が担うか」という争いも熾烈を極めた。即ち、大仏宣時・宗宣の存在である。

そもそも、大仏は安達泰盛を捨てて地位を得た一族である。一方、金沢・長井は泰盛の横死で不遇を味わった一族である。両派の対立は深刻だった。一三〇三年八月には、大仏宗宣が長井宗秀から越訴頭人職(得宗への取次ぎ役)を奪っている。これは、旧安達派にとって、「貞時に声を伝える経路を一つ切断された」事を意味したのではないか。

 前段では、得宗派と執権派の対立に焦点を当てた。しかし、大仏と旧安達派、それに平宗綱と北条宗方を加算すると、当時、得宗派自体が火薬庫だった事が分かる。

幕府の政局は複雑怪奇で、当事者達を疑心暗鬼に陥らせるに十分なものだった。

苛立つ首脳部の間に、次第に“安易な解決”を望む空気が生じつつあった。

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