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【摂家将軍】

九条道家が活躍するのは、それから十数年後の時代である。その頃、朝廷を動かすのは、

後鳥羽上皇と、その日常を世話する女官達だった。上皇に口添えをするかどうかは女官達の胸次第。とりわけ人事は、上皇の乳母、藤原兼子の承諾なくしては成り立たない。

『京には卿二位ひしと世を取りたり』(愚管抄i)

“京では、藤原兼子が、世を動かしている”

故九条兼実の弟慈円は、忌々しそうに、そう記している。


古今東西、権力者の近くにいる人物が、周囲の反発を買う事は後を絶たない。

西園寺公経という貴族も、兼子を憎む一人だった。西園寺は、源頼朝と姻戚関係を結び、朝廷で地位を高めた家で、この頃、関東申次を務めていた。

関東申次とは、幕府と朝廷の仲立ちをつとめる役職である。その権限は強大だった。

何しろ、幕府は、相談役である関東申次の意見を聞き、朝廷に口を出すのだ。

公経は、幕府を動かして、上皇に圧力をかける事ができる立場にあった。

 上皇に取り入って、朝廷を操れる兼子。関東申次の権限で、幕府を操れる公経。

やがて両者は、互いを憎悪するようになった。

 一二一七年、西園寺公経が謹慎を命じられた。原因は、「官位昇進を果たせず、腹を立て、出家して鎌倉の将軍を頼ると放言したため」とされている。

しかし、公経本人に言わせれば、「それは兼子に讒言されたから」だった。

追い詰められた公経は、鎌倉に泣きついたのだろう。まもなく、源実朝が抗議し、公経は許された。しかし、この後、上皇は関東申次を信用しなくなった。


一二一九年、三代将軍源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺された。この時、鎌倉の武士達は、頼朝未亡人の実家、北条家に後を委ねた。しかし、源氏でない北条は、将軍になれない。 

そこで、北条政子と義時は、「皇子を将軍として迎えたい」と上皇に懇願した。だが、

『いかに将来にこの日本国二に分る事をばしをかんぞ、こはいかに』

“どうして将来、日本を二つに割る火種を撒かねばならんのだ、そうは思わんか”

『ただの人は、関白摂政の子なりとも申さむにしたがふべし』

“貴族でもない関東武士など、摂関家の子にでも従っていればよかろう”

この言葉に従い、四代目鎌倉殿が派遣された。

即ち、皇子ではなく、九条道家の三男三寅が、鎌倉に下向したのである。

「摂家将軍」誕生の後、後鳥羽上皇と北条一族は、険悪な関係となった。

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