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【ねじれ政局】

一三〇一年八月二十四日、後伏見上皇の弟富仁親王が皇太子となった。北条貞時が執権を退いた僅か二日後、新執権北条師時は、持明院統を復活させたのである。

更に翌二十五日、越訴が復活した。一方で、越訴頭人には、北条宗方と長井宗秀(元安達派の御家人)が就任した。得宗派と執権派の間で、政治取引があったと見られる。

師時は中央で実績を積んだ貞時の従弟(北条宗政の子)で、その母は連署北条時村の妹である。一連の政変で、時村が最も利を得た事は、誰の目にも明らかだった。


しかし、貞時が“得宗として”抵抗を続けたため、この時期、後世から見て、判断に苦しむ政治決定が繰り返された。十一月、幕府は朝廷に対して、次の宣言をしている。

『両御流践祚、依違すべからず。遅速叡慮にあるべし』(吉続記i)

“両統が皇位を共有していくなら、即位と退位の時期はそちらで決めて構わない”

・大覚寺統:「亀山法皇(後見)―後宇多上皇(院政)―後二条天皇―邦良親王」

・持明院統:「後深草法皇(後見)―伏見上皇(院政)―後伏見上皇…富仁親王(太子)」

後深草法皇などは、これに大喜びした。幕府は内輪もめの末に、“両統の存続を保障してしまった”。ならば、両統が共存共栄していく契機となるではないか。

一三〇二年二月二十三日、法皇の呼びかけで、諸上皇が亀山殿に集まった。持明院統は後深草法皇・伏見上皇・後伏見上皇。大覚寺統は亀山法皇・後宇多上皇。この日、後伏見が亀山に蹴鞠を教わった。晩年の後深草は、「皇室の家長の責任」を自覚した行動が多い。

『頗及亂醉』(実躬卿記)

“その後の宴会は乱酔に及んだ”

確かに、後宇多上皇が永嘉門院(院領の相続権者)を後宮に迎え、「室町院領(【後嵯峨の死】参照)問題」で大覚寺統が優勢となったのは、この時期である。

 だが、皇位争いは存亡問題。領地争いは遺産問題である。問題の次元が違う。


 九月、鎌倉で、何故か引付頭人が八人編成に変更された。

・得宗派:大仏宗宣(一番)、大仏宗泰(三番)、北条宗方(四番)、長井宗秀(七番)

・執権連署派:北条煕時(六番、時村の孫、貞泰が改名)

・要検討:赤橋久時(二番)、名越時家(五番)、摂津親政(八番)ii

これは、当時の実力者(足利氏除く)が勢揃いしたもので、「大連立」の観さえある。

こうした中、佐渡に流されていた京極為兼が、いきなり幕府から赦免された。

おそらく、幕府の誰かが、持明院統の歓心を得ようと、そう計らったのだろう。

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