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【北条貞時の挫折】

一三〇〇年十月、執権北条貞時が、また「越訴(裁判のやり直し)」を停止した。

これは、裁判制度の改革が目的で、成熟期に入った組織ならではの問題だった。

裁判が上手く機能しなければ、幕府は統治能力を疑われる。

焦る貞時は、これまでに二度、裁判を自らの手で管理し、外科手術を試みている。

これをもって、「貞時は独裁志向だ」と評される。が、試みは失敗に終わっていた。

そうなったのは、「引付頭人―評定衆―引付衆―開闔―執筆―合奉行」という、巨大な組織が貞時を阻んだからである。その頂点が、北条時村(一番引付頭人)であった。

今度こそと執念を燃やす貞時は、十一月二十五日、六波羅北方の北条宗方を呼び戻し、翌年一月に四番引付頭人とした。宗方は、先年亡くなった北条兼時の弟であり、貞時の従弟である。六波羅で「永仁の徳政令」の実行を指揮した宗方を、貞時は信用していた。

貞時は、宗方と共に、幕政改革を決意したのである。


一三〇一年一月、貞時は後伏見天皇を急に退位させ、後二条天皇を即位させた。

『上下惘然』(『継塵記』・「人物叢書 京極為兼」一二二頁)

これは全く突然の政変で、持明院統の後深草法皇と伏見上皇は、幕府で何が起こったのかと茫然としていたという。おそらく、幕府の改革に協力させるため、実務に強い大覚寺統を再登板させたのだろう。そのあたりの期待を感じてか、院政を行なう後宇多上皇の評定には、引退した筈の父亀山法皇が臨席していた。亀山と後宇多は、貞時の期待通り、乾元・嘉元年間に「政理乱れず」(花園天皇宸記)と評される善政を行なった。


しかし三月頃、平宗綱が突然佐渡から鎌倉に呼び戻され、内管領となった。父頼綱に冷遇され、ついには父を貞時に売った、「あの宗綱が」である。

亀山らは、状況が楽観できない事を悟った。こんな人物が、わざわざ呼び戻されるという事は、貞時の周りから人が減っている。即ち、貞時が孤立しつつある。万が一、後二条天皇が退位に追い込まれた場合、皇子の邦良は一歳。これを奉じるのは無理がある。

七月二十日、五辻忠子が准三宮となった。

准三宮は、「天皇」に近い女性に与えられる位である。亀山らは、用心深くも、尊治(のちの後醍醐天皇)を皇位継承者にする準備を始めたのだった。

この布石は、間もなく功を奏した。即ち、次の報が京に届いたのである。

「八月二十二日、北条貞時が執権職を辞し、出家した。翌日、連署大仏宣時も退任した。新執権は北条師時、連署は北条時村となった」

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