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【立かへるならひ】

一連の騒動が終わり、伏見政権は崩壊しつつあった。幕府からの不信。

父後深草法皇は、既に政権を見限り、大覚寺統との融和を考えるようになっていた。

持明院統にこれ以上の傷をつけないためである。

今の大覚寺統には、娘の遊義門院がいる。政権を譲っても、そうひどい仕打ちはしてこないだろう。法皇の黙認のもと、大覚寺統の復権が進められた。


一二九八年一月、既に失脚していた京極為兼が六波羅に連行された。

『陰謀の聞へあって』(保暦間記)

“幕府に対する陰謀を画策したという風説があった”

しかし、その「陰謀」とやらの実態は、今なお不明である。ただ、この頃為兼が公卿達から強力な反発を受けていた事は確実で、三条実躬という貴族などは、「為兼のご機嫌を取らねば、伏見天皇から官位をもらえない日々」を、涙ながらに記している(実躬卿記)。

そのため、「陰謀などなく、単なる讒言ではないか」とみる向きもある。

何にせよ、禅空事件の時と比べ、奇しくも幕府と為兼の立場が逆転したわけである。

禅空事件は、平頼綱失墜の一因となった。しかし、同時に、そういう頼綱を許していた執権北条貞時も体面を汚された。その意味で、かつて幕府を言い負かした張本人を罰する事は、幕府と朝廷の今後の関係のためにも、良い絵図だった(【反骨の歌人】参照)。

西園寺実兼に配慮して、命だけは助けてやる。三月、佐渡への配流が決定された。


佐渡へと向かう為兼は意気消沈していた。もはや、伏見天皇と一緒に朝廷を改革する夢も、後代に残る和歌集を作る望みも絶たれた。自分は、かの後鳥羽上皇のように、孤島で都を想いながら、人生を終えるしかないのだろうか。

そんな為兼を天が哀れんだのだろうか。佐渡に渡る前、越後の寺に泊まった為兼は、一風変わった遊女の世話を受けた。名を初若という。風流を解する女性で、都を離れ、こんな才女と出会えると思っていなかった為兼は、感動の夜を過ごした。

翌朝、出立に当たって、また会いましょうと和歌を詠んだ為兼に、初若は返歌した。

『物思ひ こしぢの浦の しら浪も

 立かへるならひ ありとこそきけ』(玉葉和歌集i)

“白浪が佐渡に押し寄せては越後に立ち返るように、貴方もきっと都に帰れます”

それは、都のとりすました和歌とは違う、素朴で温かい歌だった。

こうして、為兼は佐渡へ送られて行った。“立かへるならひ”を信じて。

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