【永仁の徳政令】
一二九七年三月、執権北条貞時は、「永仁の徳政令」を発した。
①過剰な裁判のやり直しはやめる②土地の質入れ・売買を禁止する③金銭の貸し借りについての訴えは扱わない。その目的は二つあった。一つ、領主の没落を防いで、秩序を保つ。二つ、裁判で扱う案件を減らし、処理を速くする。以上であった。
徳政の効果は荘園領主や百姓にも及んだ。
荘園領主が救われた理由は簡単である。御家人身分を持つ荘園領主がいたからだ。例えば、関東在住の神主がこれにあたる。参考までに触れるが、一方で、御家人の中にも荘園領主はいる。この時代最大の荘園領主は、平家と後鳥羽上皇から膨大な荘園を分捕った幕府に他ならない。なるほど、朝廷と幕府が協調する必要が生じるわけである。
百姓が徳政に便乗したのは幕府にとっても誤算だった。何の関係もないのに実力行使で土地を奪回しはじめたのである。銭は借りたが、元は自分の土地。銭で売ったが、昔は先祖の土地。代々の営みを守る事こそ、我が正義。東国を中心に混乱が起きた。
この混乱のため、畿内・西国での徳政令の実施は遅れた。六月、貞時はこういう不届きな連中への見せしめとして、興福寺を槍玉に挙げる挙に出た。
『武家敵対と称し、地頭を一乗院領に補し』(略年代記i)
大和一乗院領に地頭が設置された。争いを続ける者は根こそぎ捕縛する。僧らもこれには震え慄き、南都闘乱は終結した。以後、大和の諸勢力は、興福寺からの自立を進めた。
八月、六波羅に徳政令が送られ、十月、満足した貞時は一乗院領の地頭を廃止した。
結局、この徳政によって得をしたのは、没落御家人・没落荘園領主・百姓。
損しなかったのは、幕府や朝廷に泣きついた者。それと、徳政の対象外となった、得宗関係者。してみると、本当に損をしたのは、“悪党”であった。
幕府はこの徳政によって、御家人を救い、統治を強化する事に成功したのである。
以後約三十年間にわたって、永仁の徳政令は続けられた。
しかし、所詮は焼け石に水であろう。
『法に違いて家用足らず、或いは領所を売り、或いは料所を置く』(平政連諫草ii)
経済の発展に乗り遅れた御家人は、もはや日常の役務(幕府向けの仕事にかかる費用)すら賄う事が出来ず、土地を売るか、貸すしかなかった。
一二九八年二月、①・②は解除された。一方で、質入れ・売買で手に入れた土地は、引き続き「元の持ち主に返せ」と触れられた。矛盾を感じるのは、気のせいだろうか。




