【花嫁泥棒】
一二九四年、後深草法皇の御所で一風変わった騒動が起こった。
騒動のもとは、亀山法皇の子後宇多上皇と後深草の娘遊義門院(姈子)である。姈子は一二八五年に、当時天皇だった後宇多の皇后に立てられていた。その頃、朝廷は亀山が君臨していたのだから、この婚姻は、持明院統の起死回生の一策だったのだろう。
ところが、婚姻後も、姈子はなぜか父後深草のもとで生活していた。
霜月騒動後、両統の関係が悪化したからだろうか。
奇妙な夫婦生活は、後宇多の強引な行動によって転機を迎えた。六月二十八日、後宇多は姈子を後深草の御所から盗み出し、自らの御所に住まわせたのである。
『いと忍びがたく思されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて』(増鏡)
“恋い慕う思いが忍び難かったので、あれこれ謀って、盗まれた”
娘を「盗まれた」側の父後深草にとっても、「盗んだ」側の父亀山にとっても、この事件は思いもよらないものだった。しかし、亀山は抜け目がなかった。
これを、持明院統との仲を修復する好機と判断し、息子夫婦の仲を取り持ったのである。低迷していた大覚寺統は、これを機に、息を吹き返した。
ところで、後宇多上皇と姈子はそれで良いとして、後宮に今までいた他の女性はどうなったのだろうか。意地悪な言い方をすると、九年も別居していた本妻が急に来たのだから、後宮で一悶着あったのではないかと邪推したくなる。
そこで、五辻忠子という女性をここで紹介したい。
忠子は、後宇多の後宮の一人で、既に三男一女をもうけていた。
忠子への寵愛は、姈子が来た頃から失われた。後宇多が忠子を捨てたのか、姈子がそう仕向けたのか。いずれにしろ、忠子は庇護者を失った。
ここまでは、後宮ではよくある話だが、彼女はこれで終わらなかった。
『近頃は法皇召しとりて、いとときめき』
“近頃は、亀山法皇が召しとって、たいそうな寵愛をうけた”
気が付くと、忠子は、亀山の寵愛を受ける立場に納まっていたのである。
舅への鞍替え。子供達を護る忠子は強かった。
忠子は、結果として、自らと子供達に対する、最高の庇護者を手にしたのである。
上皇は、多少後ろめたかったので、父と忠子の仲を黙認した。
さて、この忠子の長男尊治こそ、後の後醍醐天皇である。