第三章:忘れられた時代【分裂の時代】
平頼綱の死によって、鎌倉は変わった。
頼綱の遺領は御家人に分配され、金沢顕時・宇都宮景綱ら安達派が政務に復帰していた。
すべて、政権を掌握した執権北条貞時の差配である。
貞時の掲げるところは、祖父時頼・父時宗の時代の再現である。
没落御家人を救い、悪党を絶やす。鎌倉の若き執権は理想に燃えていた。
さて、これに刺激された京の伏見天皇は、一二九三年六月頃、「庭中」を設置している。
『下情上に通ぜざるの間、徒らに訴訟に疲る』(勘仲記i)
“民の不満が上に伝わらないため、裁判が長引く事が多い”
即ち、裁判に倦む民を救うため、「庭中」(直訴)を導入したのである。
朝廷には、公卿らが交代で出仕し、連日裁判のやり直しが受け付けられた。
そして、再審の必要ありと判断された案件は雑訴沙汰(正式な裁判)に送られ、次々と議定衆(裁判官、なんと関白も参加している)によって、新たな判決が下されていった。
朝廷のこのような善政は、明らかに鎌倉に呼応したものであった。
もしくは、明らかに鎌倉に「対抗したもの」であった。
八月、その伏見天皇が、歴代の優れた天皇のように和歌集を編纂したいと言い出し、四人の歌人が集められた。京極為兼・二条為世、それと老齢の飛鳥井雅有・九条隆博である。
この人選には難があった。
当時、朝廷の歌壇は、三つの流派が担っていた。それぞれ、藤原定家の子孫が担う、京極流・二条流・冷泉流である。中でも、京極流と二条流の不仲は有名だった。
案の定、選者となった為兼と為世は対立し、まもなく為世が撰者を辞退した。
所変わって大和。
守護のいないこの国を支配したのは、ご存じ興福寺である。
困った事に、この興福寺の最高職は二つあった。
摂関家の子弟が門跡(長)を務める、一乗院の門跡と、大乗院の門跡である。
指導者が二人、という事は軋轢が起こる。興福寺は常に火種を抱えていた。
十一月、その興福寺で、一乗院派と大乗院派が武力衝突した。日頃の対立が発火したのである。支配しない国とはいえ、戦乱の鎮圧は幕府の仕事である。幕府は、六波羅と近国の軍勢を動員し、興福寺を制圧した。こうして、騒動は、鎮静したかに見えた。