【八幡宮上棟祭】
一三七一年十月二十四日、石清水八幡宮の再建は一つの契機を迎えた。
『廿四日。武藏守源賴之輔任相摸守』(花営三代記)
“この日、管領・細川頼之は、武蔵守から、相模守となった”
鎌倉幕府の執権・北条家が就いた職である。その位置が認められた。
『爲相模守源賴之朝臣冝令造進八幡宮』(師守記)
“相模守・細川頼之朝臣、石清水八幡宮の造国司とする”
翌二十五日、頼之は上棟祭を行った。大納言洞院実守・中御門宣方・三善家連らが参列した。
この時期、朝廷の催しが成功するのは珍しい。一三七〇年三月、洪武帝の使者が南朝・懐良親王の太宰府を訪れた(【第二回対明交渉開始】)。その少し後、七月、北朝・後光厳天皇(当時)は父光厳院の七回忌仏事(法華八講)を行っている。だが六日、西園寺家の三善輔衡が、同族直衡と喧嘩し、「行道の役」という役を放棄した。更に、直衡も高階成重なる官人と役に付くのを嫌う素振りを見せ、命に従わなかった。即ち、三善の主人の武家執奏・西園寺実俊が、わざとらしい反後光厳の姿勢を見せた。八月、後光厳天皇は皇子への譲位を主張した(【皇位継承争い】)。その後、兄崇光上皇(皇室の祖)と後光厳天皇が対立を始めたが、秋頃「光厳院置文」によって北朝は「崇光流が正嫡だが、後光厳流が一時的に皇位についた」。まるで筋書き通りの喧嘩である。肝心な所で、持明院統は兄弟が団結していた。
『本院・新院たちまちに御中悪く成て、近習の臣も心々に奉公引わかる』(椿葉記)
“崇光院と後光厳院の仲はたちまち悪くなり、廷臣も二派に分かれた”
後に、貞成親王はそう記す。だとして、西園寺実俊は「崇光派」である。母日野名子は、光厳上皇と共に西園寺を復興した(【雪の日の想い出】)。院が「崇光流が正嫡」とした以上、それを死守する。後年、実俊は「幕府として、一応後光厳流を保護する」義満の“政治行動”すら嫌い、催しへの出席を拒んだ(義満も、裏では斯波義将に崇光流を保護させた)。
「後光厳上皇の」進める八幡宮再建に対する、西園寺家・三善家連の参加は、一見不可解であった。だが、そもそも三善一族は、理財に長けた西園寺の家宰で、伊予・宇和島を介する「国際貿易」を支えていた。崇光流にとって、八幡宮再建は、幕府と明の軍事衝突を避け、交易を守るための手段に他ならなかった。やはり、肝心な所で団結している。
そして、かの道鏡の「宇佐八幡宮信託事件」をはじめ、八幡宮は火急の際、皇統の正統性を保証する寄る辺となる。明や征西府を意識した、「皇統を護るための布石」であった。
後年、西園寺実俊曾孫の公名は、後花園天皇(皇室祖)のもとで太政大臣に復している。