【一統の種】
一三七一年九月二十日、南朝征西府・懐良親王は、信濃の兄宗良親王に和歌を贈っている。
『日にそへて遁れむとのみ思ふ身に いとどうき世のことしげきかな』(李花集)
“兄上、日々、出家したいと思う身に、悪い報せばかりが続きます”
なんで私が征夷大将軍なのでしょう。訳が分かりません。
この頃、征西府には後継者・良成親王らと思しき、強硬派がいる。彼らは、畿内で暴れる幕府軍と九州に近付く今川了俊(幕府・九州探題)を恐れるあまり、親王に征夷大将軍を僭称させた。親王は、“本当の(南朝の)征夷大将軍”である、兄に申し訳がなかった。
『しるやいかによを秋風の吹くからに 露もとまらぬわが心かな』
“秋風の季節となりました。しかし、私の心は乾いています”
これで、畿内の長慶天皇(甥・南朝天皇)と信濃の宗良親王は、征西府を支援しにくくなった。東と西が連携すれば、幕府を東西から撹乱できたろうに。
今川め、何故九州に攻めてこない。既に、征西府からは、僧祖来が明へ向かっているのだぞ。九月二十二日、京では駒が引かれていた。
『上卿權大納言公豐卿以下參之、次八幡一社奉幣也』(師守記)
“三条公豊卿以下が参じた。石清水八幡宮への奉幣である”
もう構わん。どうせなら国交を結べ。将軍足利義満・管領細川頼之主従は、征西府を挑発するかのように、京で大体的な石清水八幡宮再建工事を始めた。彼らの再建工事への熱意は異常であり、先日、頼之が遁世を思い詰めた時とは、まるで様子が違った。
八幡宮に妙に積極的になった理由と、後光厳流への冷遇の決断から察するに。これである。
『延文三年四月廿七日 尊氏公御判 御父足利大和守殿』(萩藩閥閲録巻百十八)
“一三五九年四月二十七日 「足利尊氏公の判」 我が父足利秀政殿へ”
………はて。四月二十七日といえば、足利尊氏(義満の祖父・初代将軍)が亡くなる三日前(【水陸供】)。死の床で、九州遠征をせねば大変なことが起きると悲想観もあらわに主張し、息子義詮(義満の父・二代将軍)を困らせていた筈の時期である。
『八幡大菩薩者、從義家以來、爲當家氏神、奉所持軍神也』
“八幡大菩薩は、八幡太郎義家以来(源氏の伝説的指導者)、当家の氏神。軍神ですなあ”
死に掛けの尊氏が、何を仕込んだかは後段に譲るとして。先段で佐々木導誉らは、この文書を義満・頼之に教えたのではないか。足利秀政。本名を日向秀政。平氏。娘“さぬ”が尊氏室。源氏棟領・尊氏は平氏を取り込んでいた。そして、八幡宮は源氏と皇室の守り神である。