【夢見る帝】
掃除が済んだ朝廷で、伏見天皇の改革が始まろうとしていた。亀山法皇の“治天が迅速に政務の断を下していく改革”に対して、“政務の手続きを簡素にする改革”i。
世に「正応徳政」という。その折に活躍したのは、京極為兼だった。
一二九二年一月十九日、伏見天皇は変な夢を見た。
『今曉夢想、禅林寺殿より、仙洞に謝り申さるるの旨あり。その趣、日來の凶害、御後悔の由なり』(伏見天皇宸記)
“未明に夢を見た。亀山法皇が出てきて、父後深草法皇に謝罪している。謝罪の内容は、日頃、持明院統に対しておこなってきた凶害を後悔するものだった”
夢に驚いた伏見は、禅空事件の後、ますます信頼を深めている京極為兼に、この夢について話した。何かが起こる予兆だろうかとの問いに、為兼は答えた。
『今月一日、夢に、山に松樹三本有り。開口これを呑む』
“私も、一月一日にめでたい夢を見ました。山に松の木が三本立っていまして、それを私が口を開けて飲み込む夢です”
「私は常に、帝の在位が長きに渡り、君臣が久しく一体となり、さらに私が優れた歌道を打ち立てる事の三つを願っています」、きっとそれが叶う予兆ですと為兼は答えた。
めでたい夢を見たものだと、伏見はこの事を日記に書いた。
一月二十日、伏見はまた変な夢を見た。
『夢想の事有り。吾れ女犯せんと欲す。その時思う所、我身これ法師なり。而して忘却の間、日來此の如き女犯の事有り。今日に於いては、此の如きの不浄□これを停べきの由、即ち覺め了んぬ』
“夢を見た。夢の中で、私は女犯をしようとした。その時、自分が法師の姿をしている事に気付き、はっとした。思えば、自分は僧なのに、日頃奔放な女性関係を築いている。
今こそ、悔い改めようと決意したところ、目が覚めた”
この決意は、ある程度守られたらしく、伏見の女性関係を責める記録は、それほど残っていない。この点、伏見は父後深草法皇や叔父亀山法皇とは異なる人物だった。
あるいは、二つの夢は、浅原事件で自分を殺そうとした(と伏見は考えている)大覚寺統への怨みを捨て、女性に熱を上げるのも控え、政務に打ち込もうという決意の表れなのかもしれない。そして、そんな伏見の心を支えたのが、京極為兼だった。
しかし、為兼を妬む貴族達は、次第に為兼を「奸臣」と見るようになった。