第一章:前史【建久七年の変―政略家久我通親―】
序章で、北条泰時が危険視していた「九条道家」は、藤原の氏長者(指導者)である。
したがって、「藤原道家」と呼ぶべきなのだが、後世の人はそう呼んでいない。
その理由は、摂関家が分裂したからである。
平家が滅びた後、東国で政権造りを進める源頼朝は、京の後白河法皇と対立した。
そして、摂政九条兼実(九条家の祖)と手を組んだ。
一方、法皇は近衛基通(兼実の甥)を重用し、兼実を抑え込んだ。
摂関家にとって悲劇だったのは、京と鎌倉の対立が、一一九〇年の頼朝の上洛をもって終わった事だろう。頼朝は、冷静な政治家である。いつまでも、法皇と敵対し、平氏と同じ轍を踏む筈がなかった。後には、「摂関家の分裂」だけが残された。
一一九二年、後白河法皇が逝去し、頼朝が征夷大将軍となった。もはや、頼朝を遮る者はいない。慢心した頼朝は、娘大姫を後鳥羽天皇に嫁がせようと画策した。
しかし、天皇の后は「兼実の娘」である。頼朝は、兼実を平然と裏切ったのであった。
そんな状況が続く一一九五年十一月、久我通親という貴族の養女が、後鳥羽天皇の皇子を産んだ。当時、天皇に然るべき皇子はなく、この皇子が後継ぎとみなされた。
久我家は、名門村上源氏の一流であり、朝廷でも藤原氏に次ぐ地位であった。
しかも、通親は、亡き法皇の側近として頭角を現した人物で、一流の政略家であった。
通親は、頼朝と兼実の間隙を見逃さなかった。今こそ、摂政を失脚させる好機。
ある日、皇后任子が突然内裏から追い出され、父兼実が罷免された。
『九条殿に参るの人、関東将軍咎めを成す。用心すべし』(三長記i)
“九条家の邸宅に近付く者は、関東の将軍から、とがめを受ける。用心すべし”
通親は、裏で頼朝の黙認を取り付けていたようだ。通親の手回しの良さが窺える。
この「建久七年の変」により、九条兼実は没落し、近衛基通が担ぎ上げられた。
頼朝は、通親なら兼実よりも御しやすい、と侮っていたのだろうか。
しかし、一一九六年、肝心の大姫が亡くなった。頼朝は、なおも娘三幡の入内を画策したが、一一九九年一月十三日に亡くなった。死因は、何と「落馬」による怪我だったという。鎌倉武士が落馬するなど聞いた事もない。何とも不可解な最後だった。
通親は、これを機に、謀略を用いて幕府派公卿を一掃し、六月内大臣に昇進した。
だが、通親は己の能力を示しすぎた。院政を始めた後鳥羽上皇は、通親を恐れ、まもなく九条家を復活させた。通親は、敬して遠ざけられ、一二〇二年に急死した。