【反骨の歌人】
伏見天皇は身内に甘い人だった。一二七九年、そんな人物が皇太子の頃、西園寺実兼の推挙で、歌道の師として一人の人物が出仕した。かの藤原定家の曾孫京極為兼という。
時に一二二〇年、当代随一の歌人藤原定家は風雅を愛し享楽を嫌った。時の権力者後鳥羽上皇は風雅を好んだが享楽も好んだ。ために、定家と上皇は、反りが合わなくなった。
ある日、終に破局が訪れた。その日、亡母の忌日だからと歌会への出席を渋る定家に、上皇は、「それでも参内せよ」と使いを送った。
定家五十八歳。老公卿は、気むずかしい顔をしかめ、次の和歌を詠んだ。
『道の辺の 野原の柳 下萌えぬ あはれ嘆きの 煙較べに』(順徳院御記i)
“自分を評価しない院の治世だから、自分はこんなに不遇なのだ”
後鳥羽は激怒して定家を閉門にした。しかし、定家は運が良かった。間もなく起きた承久の乱で後鳥羽は島流しとなり、後妻の実家、西園寺家が台頭した。以来、定家とその子孫は優遇され、西園寺の庇護のもと、朝廷における歌道の師として活躍した。
曽祖父譲りの気骨を持つ為兼は、やがて伏見天皇から信頼を受け、様々な相談を預かるようになった。その一つが、禅空という怪僧についての問題だった。
禅空は朝廷の訴訟や人事に口利きをし、その見返りとして莫大な所領を要求する僧で、この頃多くの公卿が被害を受けていた。しかし、聞けば、禅空は内管領平頼綱と繋がっているため、伏見の父後深草法皇もそれを憚って、今まで黙認してきたという。
一二九一年、これを除かずして朝廷改革はならない、と嘆く伏見に、為兼は勅使役を買って出た。そして、鎌倉に下向した為兼は、なんと平頼綱に禅空の処分を承諾させた。
この年、頼綱は「判決が出ていない裁判につき、自分が指定した五人の御内人(息子らが中心)に希望すれば、得宗に披露する」と触れている。為兼は、これに乗じたのだろう。それに、以前「僧を政治介入させるな」と言ったのは幕府である(【京と鎌倉】参照)。
五月、禅空の所領を元の持ち主に返還する旨が、朝廷に言い渡された。
『返付せらるるの所領二百ヶ所に及ぶ』(実躬卿記ii)
返還された所領は二百に及び、その中には、何と亀山法皇の所領もあった。為兼の功績は持明院統だけでなく大覚寺統からも評価され、彼の名声は両統問わず高まった。
『当時彼卿に諸人帰伏す。』
“当時、かの卿(為兼)に誰もが帰伏した”
そして、公卿たちは平頼綱を屈服させた為兼を畏れ敬うようになった。