【二条、新将軍の到着を目撃する】
時に一二七九年、鎌倉で取り調べが行なわれていた。刈田狼藉の嫌疑(他人様の田の作物を勝手に刈った疑い)で連行されてきた駿河の百姓二十名だった。震えおののく彼らは、そんな事実などないと主張するが、一切聞き入れられない。やがて、取り調べを行なう平頼綱が、容疑とは関係のない事を口にしはじめた。曰く、信仰を捨てよ。百姓達が逮捕された真の理由は、「時宗の母の領地の近くで、日蓮の教えを信仰した」事だった。
しかし、百姓達は法華宗を捨てようとしない。これに対して、頼綱は百姓達の行動の自由を奪い、傍らにいた息子の飯沼資宗に「この者達を射よ」と命じた。泣き叫ぶ百姓達に、次々と鏑矢が射られていく。この私刑で三人が死に、十七人が禁獄となった(弟子文帳)。
一二八九年十月、新将軍久明親王が鎌倉に到着した。仙洞御所から、“一旦”六波羅へ移り、鎌倉へ。京から迎えられる将軍が必ず通る道を、親王もここまで通ってきた。
それを警護するのは飯沼資宗である。資宗は、この頃、兄の宗綱を差し置いて、父から引き立てられていた。資宗は、この事を鼻にかけ、横柄な振る舞いが見られた。
この度、久明親王を迎えに上洛する際にも、わざわざ足柄山を越える道を選んだという。
『流され人の上り給ひしあとをば通らじ』(とはずがたり)
“鎌倉を追放された惟康親王が通った道など使いたくない”
「源氏将軍」の匂いが残る人物など、頼綱らにとっては、疫病神でしかなかった。
やがて、新将軍を乗せた御輿は御所に着いた。
『御所には、当国司・足利より、みなさるべき人々は法衣なり』
御所で鎌倉殿を迎えたのは、執権北条貞時や足利貞氏(足利尊氏の父)らである。
二条が、貞時と並べて記す価値があると判断した、「足利」。安達泰盛が粛清された今では、残存する数少ない有力御家人である。しかし、その足利氏でさえ、貞時から「貞」の字を貰って、半ば臣従しているのが現状だった。
新将軍を迎える儀式は、その後、数日に及んだ。
二条は、このしばらく後、資宗と交流を持ち、夜通しで和歌を詠んだりもしている。
『思いしよりも情あるさま』
“思ったよりも情趣を解する人である”と、二条は資宗を評す。
仲良く和歌を詠む事はあっても、『思いしよりも』という留保は外さないらしい。後深草上皇に重宝がられ、内心怖れられてもいた、その鋭さは顕在だった。二条がどこか辛辣に資宗を記すのは、十年前の“あの出来事”を聞き及んでいたからかもしない。