【京都と鎌倉】
霜月騒動の後、平頼綱は幕政改革を否定した。もはや、二度と本所一円地の住人(幕府の支配外の武士)を御家人に取り立てようという意見が出る事はなかった。
将軍源惟康は皇籍に戻され、全国五十六ヵ国のうち、二十八ヵ国の守護職を、北条一門が占めた。幕府は北条一門の私物と化し、“御内人の天下”となったのである。
そして、一二八八年、後宇多天皇が退位させられ、亀山上皇は政権を失った。
こうして後深草上皇は念願の政権を得た。苦節数十年。亀山の失脚を、目の当たりにした上皇は、朝廷運営に関して一つの結論を出していた。「幕府と事を構えてはならない」。
一月二日に上洛した、東使二階堂盛綱も、こう言っている。
『一、任官加爵事。理運昇進、不乱次第可被行之歟』(公衡公記i)
“一、官位昇進について。昇進は、ちゃんと筋が通るように行なって下さい”
『一、僧侶・女房政事口入事。一向可被停止歟』
“一、僧侶・女官の政治介入について。そんな事がないようにして下さい”
つまり、朝廷は何もせず、無難に活動していればよい、というのである。
この時期、関東申次の台頭が著しい。六月、大納言西園寺実兼の娘鏡子が、伏見天皇に入内した。大納言の娘が皇后になるなど、そうある話ではない。
実兼は、亀山失脚を機に栄達し、一二九一年には太政大臣となった。
一二八九年四月、実兼の奔走で、伏見の皇子、胤仁親王が皇太子となった。
後の後伏見天皇である。ちなみに、この親王の母は鏡子ではない。実兼は、その生涯で、多くの天皇に娘を嫁がせている。しかし、生涯天皇の外祖父にはなっていない。
にもかかわらず、以後、独自の立場を保持したのは、それだけ非凡だったからだろう。
九月、亀山上皇がこの情勢を見て、世の中が厭になったのか出家した。しかし、持明院統の繁栄は止まるところを知らない。間もなく、鎌倉の惟康親王が帰洛し、十月、代わりに久明親王が将軍となった。この久明親王も後深草の皇子である。こうして、天皇・皇太子・将軍の全てを持明院統が握った。これらは、内管領平頼綱の意向である。
弘安徳政・霜月騒動を経て、幕府と朝廷の派閥が、強固に結びつく情勢が生まれた。
『六波羅の驛使鞭を上て鎌倉に下着。行程三ヶ日。』(梅松論)
“六波羅の使いが早馬で鎌倉に下着した。行程は、三日間である”
京と鎌倉は一見遠く見えるが、早馬でたった三日。承久の乱・元寇を経た通信網強化の成果である。鎌倉時代最後の数十年間、京と鎌倉の政治は、より密接に連動していく。