【霜月騒動―幕府半壊―】
安達泰盛の勝算は狂い始めていた。甥の大仏宣時(泰盛の妹の子)が、北条時国の排除を喜び、平頼綱に接近している事など、その最たる例だろう(【弘安徳政】参照)。
改革に賛同すべき人士が、めいめいの都合で動いている。不慮の事態だった。
ただ、泰盛に同調する動きも起きている。朝廷の亀山上皇であった。亀山は、一二八五年七月に「常陸国の朝廷領の回復を命じる院宣」を発するなど、徳政を開始している。
無論、泰盛の改革に乗り遅れれば朝廷が衰退するという危機意識もあったのだろう。
ではあるが、亀山と泰盛の関係は、おおむね良好だったと判断できる。
例えば、十一月一日、延暦寺が祈祷を行っているi。標的は、摂津四天王寺別当職の獲得を阻んだ「安達泰盛」だった。事情を端的に説明すると、比叡山が四天王寺を支配下に置こうとしたが、泰盛と亀山が退けたのである。結局、前年九月、亀山は西大寺の叡尊を別当に補任している。この叡尊は、故金沢実時に招かれて鎌倉にも滞在した僧で、幕府受けの良い人物である。これなどは、亀山が泰盛と結びついていた傍証といえる。
しかし、亀山の援護は遅すぎた。泰盛の周囲の掃除を済ませた(【弘安徳政】参照)平頼綱は、最後の仕上げにかかろうとしていた。十一月四日、頼綱は、日光山で祈祷を行なわせている。祈祷を行なった源恵に対し、十万貫文の謝礼が与えられた。更に十四日にも、祈祷を行なわせている。この源恵は、五代将軍九条頼経の子で、将軍源惟康に近い立場の僧だった。この頃、頼綱は、泰盛と将軍周辺を切り離す事にも成功していたらしい。
更に御家人達も、心ある者を除き、多くは既得権益を失う事を恐れ、泰盛の改革に反発していた。既に、幕府内では、泰盛の劣勢が固まりつつあったのである。
十七日、鎌倉に不穏な空気が流れた。別荘で執務をする泰盛も、これを察知した。
『其後依世中動、塔ノ辻ノ屋方ヘ午時ニ被出けるニ、被参守殿云々、死者卅人、手ヲイハ十人許』(熊谷直之氏所蔵梵網戒本疏日珠抄裏文書・歴史学研究会編日本史史料[2]中世一五八頁)
“泰盛は周囲の動きに身の危険を感じ、午時に塔の辻の館に向かった。執権殿のもとに参上するためである。しかし、(途中で襲撃を受け)死者三十人・手負い十人を出した”
安達派の面々は、やむなく別荘に引き返したが、そこも間もなく包囲された。
泰盛の最期の様子を伝える記録は残っていない。しかし、結果だけは伝わっている。
即ち、名門安達一族は「ほぼ族滅された」。安達派の人々も次々と討たれ、将軍邸からは火の手が上がった。御家人の同志討ちも少なくなかったという。
二十一日、京にはこんな奇妙な情報が届いている。
『相州□□の由、今夜飛脚京都に到来の聞候』(「蒙古襲来と徳政令」二〇一頁)
残画によると、“□□”には“逐電”の文字が判読できるらしい。これが本当だとすると、貞時は何を思ってか一時姿をくらまし、頼綱を慌てさせていた事になる。
この「霜月騒動」により、有力者が数多く討たれ、更に全国で安達派が討たれた。
〈討死・自害〉鎌倉:安達一族、三浦葦名頼連、吉良満氏、伊賀景家、二階堂行景(引付衆)、南部孫二郎、大江泰広、佐々木氏清、伴野長泰ら
上野:倉賀野其重ら 武蔵:武藤氏、片山氏、河原氏ら
遠江:安達宗顕 常陸:安達重景 美作:安達景盛の子ら
信濃:伴野・小笠原一族(泰盛の母は小笠原時長の娘)
〈失脚〉宇都宮景綱(評定衆・泰盛の妹婿)・長井時秀(引付衆・泰盛の妹婿)ら
金沢顕時(評定衆・金沢実時の子・泰盛の娘婿、領地のある下総に引退)
〈没落〉足助氏(尾張)など 〈逃亡〉伴野奏房(三河へ)など
これらは、ほんの一握りである。泰盛の根拠地、上野・武蔵では五百騎が討たれた。
結局、評定衆・引付衆合わせて十二名が、何らかの形で姿を消したii。
そして、九州でも、安達盛宗(泰盛の子)らが攻撃を受けた。盛宗は、「弘安の役」以来、肥後国守護である父泰盛の代官として九州に留まり、弘安徳政では、「鎮西特殊合議訴訟機関」なる機関で、九州の実務を統括していた。しかし、神社の領地を保護する政策が、御家人の不満を招き、この年九月頃には機関の停止が決定されていた。そこに、鎌倉での騒動が伝わり、筑前守護少弐経資らの攻撃を受けたのである。盛宗は博多で討たれた。
しかし、弘安の役で活躍した少弐景資が、博多郊外の岩門で抵抗を試みたため、合戦となった。結局、多勢に無勢で景資は敗死したが、これを「岩門合戦」という。
一番賢明だったのは、時宗夫人の覚山志道に庇護を求めた人々であろう。夫人は、安達泰盛の二十歳以上年下の妹であり、泰盛の養女として時宗に嫁いだ人だった。堅物の夫から生前一身に愛情を受けた夫人は、夫の菩提を弔って生涯を終えるつもりだった。しかし、今回の騒動では、関係者を秘かに匿っている。安達派に対する捜査が全国に及ぶ中でも、夫人にだけは、頼綱も手出しができなかった。覚山志道は、頼綱没落の日まで、長く静かな戦いを続ける事になる。夫人が、安達宗顕の遺児時顕が成長する姿を見届けた上で他界するのは、一三〇六年の事である。ともかくも、“幕政改革”はここに頓挫した。