【弘安の大和一国落書事件】
弘安年間、幕府は蒙古の脅威を片時も忘れる事ができなかった。少なくとも、この時点では、元のフビライ・ハンも日本への三度目の遠征を企画していたからである。そのため、「蒙古が攻めてくる」という風説が何度も日本に伝わり、幕府指導層を動揺させた。
今なお、御家人・御内人らの「九州・西国への移住」が進められているのもこうした背景があるからである。安達泰盛の意図する「幕府の全国組織化」も、これを踏まえての事である。一方、幕府の統制が進む西国では、この頃「悪党」の出没が問題となっていた。
一二八五年三月十六日、興福寺が「悪党と噂のある者を名指しせよ」というお触れを出した。当時、興福寺は朝廷から大和一国の支配を認められている。このお触れは、それを尊重する幕府からの依頼によるものと思われる。お触れに従い、次のような告発がされた。
『教信房並びに教念、僧身としてシシを殺し、また強盗をし、万の寄沙汰する身なり』
(鎌倉遺文一五五一二・海津「蒙古襲来」七八頁)
“教信房と教念は、僧なのに鹿を殺し、強盗し、他人の裁判争いに暴力で介入している”
この告発から察するに、「悪党」とは大和国内の犯罪者の事らしい。
つまり、「悪党」とは強盗・山賊・海賊・博打打ちなどを指すのだろう。
当時、大和では、寺社の腐敗が問題となっていた。悪党を寺で養い、修行もせずに悪事を働く破戒僧が、後を絶たない。教信房と教念も、そうした類いなのだろう。
しかし、そうであるなら、悪党を育てたのは、他ならぬ寺社勢力ではないか。
仮に興福寺が幕府に協力したとして、悪党が根絶できるのか。そもそも、興福寺の僧兵と寺々の破戒僧に、いかほどの違いがあるというのか。この問題の根は深かった。
三度目の元寇を恐れる日本社会では、幕府や朝廷によって、統制が強められた。結果として、地域社会の「慣習」と黙認されてきた事が、「悪」とみなされていくのである。
当然反発も強く、西国を中心に、「悪党」の活動は日を追って活発となった。
これらは、泰盛の改革の負の側面といえる。これが、次の時代への「産みの苦しみ」となるかどうかは、泰盛と平頼綱の対立の決着次第である。
執権北条貞時の耳には、相異なる二種類の意見が、ひっきりなしに入れられた。
『泰盛・頼綱なかあしくして互いに失はんとす、共に種々の讒言を成す』(保暦間記)
“泰盛と頼綱は仲が悪く、互いに相手を失脚させようとして、数々の讒言をした”
しかし、少年執権には、有効な手を打つ事ができなかった。それどころか、この年二月には疱瘡を患い、四月初旬にも病に倒れている。何と間の悪い。